ボストン 就職セミナー 1/2 [就職活動]

学校から帰ると、自宅に大きな封筒が届いていました。そこには日本語で就職セミナーという文字がありました。
開けてみると、そこにはボストンで春に開かれる日本企業の就職相談会の招待状が入っていました。交通費を持つのでボストンまで来て欲しいという依頼です。丁度休みに重なっているので、行ってみようと思いました。
ボストンへは用意された航空券でラ・ガーディア空港からボストン空港へ向かうところから始まりました。空港はラ・ガーディアのターミナルではなく、少し離れたシャトル・ターミナルでした。小さなジェット機に乗ってボストンに着くには1時間かからないくらい近かったです。空港からは地下鉄を乗り継いで、町の中心地に向かいました。たった2泊3日の旅なので荷物は大きくなく電車での移動も楽でした。宿泊は会場の近くのシェラトンホテルにしました。
私は、ひとりでの参加です。実は、自分の人生において初の一人旅でもありました。到着して部屋にチェック・インをすますと町を散策しました。ボストンには車で何回か来ているのでだいたい位置関係を再確認し、明日行われる就職セミナーの場所を確認、近くのカフェで食べ物を買い、自分の部屋で資料を読みながら軽い食事を済ませました。
翌朝、起きて着慣れないスーツを着ました。そして、当時就職活動には必ず学生が持ち歩いていたプラスティック製の資料入れにレジメを複数枚入れ、会場に向かいました。
驚いたのは、かなりの人数の日本人学生がボストンに集まっていたことでした。こんなに沢山の日本人留学生が就職活動のためにボストンに集まっているとは思ってもみませんでした。皆が大学3年か4年生です。そして、セミナーというのは名ばかりで企業の面接会場でした。入り口でレジストレーションを行い、大きなコンベンションセンターに入ると、100社近い日本企業がブースを構えていて、好きな企業の人事面接官と面接をするのです。これは事実上1次面接にあたります。面接スタイルは企業によって違っていて、複数の学生に対し面接官がひとりだったり、1対1の面接だったりしました。
私は、映画を作りたいという強い目的を持ってアメリカに来ました。このときもその思いは変わりありませんでした。そしてニューヨーク大学のビジネススクールで辛い勉強をしてきて、自分の力をだんだんと感じつつある頃でした。
しかし、集まっている企業は、重工業や製薬メーカー、旅行関係など私の志望業種はありませんでした。
私が考えたのは、とりあえず面接を沢山受け、日本の企業がどんな人間を欲しがっているのかをリサーチすること、そして面接に慣れることを主目的にしようというものでした。
ボストンまで来て人材を確保しようという各社は、それなりに気合いが入っているはずです。そこでいろいろと聞いてみようと気軽に考えてのぞんでみました。
そして数社ブースを周り面接を受けて感じたのは、自分の望んでいることが面接官に直ぐわかってしまうことでした。興味のない業種に関しては、何故この会社に入りたいのかという熱意が伝わりません。興味がないのだからあたりまえです。殆どの企業はここで終了です。
いくつかの会社は、興味がないにも関わらず私に対し積極的なアプローチをしてきました。当時アメリカではTOP10に入る大学に在籍していたこと、日本語と英語が堪能なこと、人柄が悪くはなかったことなどがその原因だと思います。
結局夕方の5時頃まで10社程度の面接を終え、翌日来て欲しいと言われた企業は4社でした。どこも旧財閥系の企業でした。
ブースを回っているとき、混んでいる企業の場合は列が出来ます。そこで前後にいる人と話をすることになります。私は日本語を話せるのが楽しくいろいろな人に話しかけてみました。普段英語で生活しているので日本語会話がとても嬉しかったです。わざと長い列に並んで話していました。その中のひとりが、とても気が合う人でした。アメリカ人の彼がシラキュースから車で送ってくれて、今日一日中ホテルで待ってくれているという女性で、彼女はSUNYに通っていました。私もかつてSUNYにいたので、話があったのです。
彼女によると、交通費が支給されたのは上位数校の大学の生徒だけだということを知りました。そして、彼女が話した学生のほとんどは明日の面接に呼ばれず、今日の夜ボストンを離れると言うことを聞きました。私のように何社からも声がかかった学生に初めて会ったと言われ驚きました。
彼女とは、会場近くで簡単な夕食を採りました。そしてアメリカ人の彼がボロボロの車で迎えに来たので、そこで分かれました。彼女とはその後も就職活動に関し連絡を取り合いました。
翌日の面接は次回お伝えします。
留学予備校 3/3 [留学を決意するまで]

河合塾には、毎日通いました。TOEFLは毎月のように受験しましたがなかなかスコアが上がりません。ただ受ける度に少しずつスコアは上がっていきました。一応英語は勉強していたので地味に成果は出ていたのです。ただ目標のスコアに達するのはまだ時間がかかるようでした。
英語の授業以外に受けたのは、大学に入ってからのノートの取り方やどのようにして授業についていくのかなど実践的なアドバイスです。実はおおくの留学希望生が大学に入ることを最大の目的にしてしまい、入学後に辞めてしまうことがおおいそうです。そのため、きちんと授業についていって卒業を目指す学生を作ることを河合塾は考えているようでした。その他にも米国の歴史や日本との生活習慣の違いなども丁寧に教えてくれました。
当時の私は、英語の授業は苦痛でしたが、米国生活に関する授業はとても楽しかったです。英語の授業は将来が不安になるばかりでした。しかし生活に関する話は将来に少しだけ明かりが差していました。自分は、アメリカという見知らぬ土地で夢のような生活を送れるのかもしれない、そう思うと前向きに勉強が出来ました。
河合塾に入り半年もすると、友達のグループができてきます。私は真ん中のクラスの20人の中で6〜7人と仲良くなりました。でもそのおおくは、学費と遊ぶ金を稼ぐため、学校を休んでバイトをしていました。なので毎日クラスに参加するわけではありませんでした。彼らのおおくは地方出身者だったので、狛江にある河合塾の寮に住んでいました。私が塾で仲良くしていたグループの内殆どはこの寮に住んでいました。
私は時々その寮に遊びに行きました。そこには不思議な世界が広がっていたのです。たいして広くない部屋に2段ベッドがあり、1部屋2人が住んでいました。隣にはまた別の2人、全部で10部屋くらいあったので20人(生徒の約半分)がこの寮に住んでいたのです。住人は部屋を行ったり来たりして仲良くしていました。皆はそこで将来の夢を語りあい、グループごとに一緒にアメリカに行こうと話し合っていたのです。寮にいた学生のおおくは、結局ロサンゼルスに行くことにしました。できるだけ同じ大学に行けば、アメリカでも一緒の寮に入り今の関係が続くというわけです。私はどうしてもこの仲間意識が理解できず、ひとりニューヨークを目指すことにしました。きっとこのメンバーと一緒にLAに行ったら楽しいけれど、アメリカに行く意義を見失ってしまうと思ったのでした。
なので、寮にいる友達とは適度な関係を保ちながら、どちらかというと1人で留学に向けた準備を進めました。
高校が一緒だった中川は、相変わらず一緒に通学していました。帰りは一緒だったり別々でした。彼はとても気の良い人間で付き合いやすかったです。でも、留学の動機が私とは違っていたようです。彼は塾でカウンセリングを受ける内にホテル・マネージメントの仕事に就きたいと思うようになりました。そしてカウンセラーからフロリダにあるホテル・マネージメントの学科のある大学を紹介されました。彼はその大学にアプライすることになります。
デザイナーを目指していたアキラは、ロサンゼルスにあるデザイン学校を受験することになりました。彼は非常に真面目でバイトをしながらちゃんと授業にも出席し、目的意識を持ちながら頑張っていました。
九州出身のリュウは、アメリカでアメリカン・ドリームを実現するため「でっかいビジネスを立ち上げたい!」というのが口癖でした。彼はオハイオ州にあるビジネス専門大学に入るべくオハイオ州にあるランクの低い大学に入ることにしたようです。そこからオハイオ州立大学のビジネススクールにステップアップする方法を選んだのでした。
リュウと一緒の部屋にいた映画監督を目指す山田は、ロサンゼルスのコミュニティ・カレッジを目指しました。そこで頑張ってUSCに転入することが目的です。でも彼には重大な問題があったのです。彼は酒乱でした。普段はとてもおとなしく地味に頑張っている青年でしたが、寮で酒を飲むと手が付けられないくらい暴れるのでした。それは日を追うごとに酷くなり、寮だけでなく街中で酒を飲んでも見知らぬ他人に絡み暴れるのでした。そのうち渋谷の安い飲み屋で喧嘩騒ぎを起こすようになり、寮に住んでいる仲間は彼を監視して守るようになっていきました。果たしてそんな酒乱の男がアメリカの大学に入学しうまくやっていけるのか、皆が不安になるようになりました。
一番下のクラスにいた太った男河本と、同じ部屋にいたお金持ちのご子息の藤井は、二人揃ってロサンゼルスを目指していました。河本はロバート・デ・ニーロに憧れていてハリウッド俳優を目指していました。藤井は、裕福でいつもブランド品を身に付けていました。東京に家があるのに寮に住んでいる変わったタイプの男でした。実は彼の家庭環境は複雑で、家にいることができないのでした。日本に居場所がなくてアメリカに行くタイプのちょっと悲しいバックグラウンドを持っていたのです。彼はとにかく東京から逃げたかったのではないでしょうか。特に勉強もせず、フラフラとしていて授業にもあまり出席せずバイトをするわけでもありませんでした。昼間から寮で本を読んだりして、時々皆に酒を奢っていました。
品川から通ってきていたタカは、私と同様ある距離を取りながら私と同じグループにいましたが、暫くすると彼なりの道を見いだしてきました。やはり河合塾の仲間と一緒に留学を共にするのは良くない、できるだけ日本人のいない大学に入学しようと考えたのです。そこで選んだのがアメリカの陸の孤島、カンザス州の田舎にある大学に進学するのです。そこまでいけば日本人はいないでしょう。彼はそこで英語を身に付け4年生大学を目指すことにしました。
こうして、50人の学生の内40人程度が、河合塾の留学カウンセラーと共に留学の目的を詳細に決めていきました。最終的な将来の仕事をイメージしながらどうアプローチして大学卒業という高いハードルを越えていくのか、これはひとりひとり違った道です。ですからカウンセラーは、何時間も時間をかけて学生ひとりひとりの方法論を一緒に考えてくれるのでした。
私の担当だった楠先生というカウンセラーは今考えると、とても素晴らしい方でした。当時は優しい人というイメージでしたが、私の進路についてとても親身に考えてくれました。
私の場合、まずニューヨーク州立大学に入学し、そこで良い成績を取る。そして校長先生の推薦状を貰い、最終目標であるニューヨーク大学に入学するというアプローチが考え出されました。でも、そう上手く行くわけもないので、一応いくつかの大学にアプライする準備を進めました。
そんな中、東京原宿で留学フェアなる催しがありました。そのフェアではアメリカから大学の留学生課の方が来日して大学をアピールするというのです。早速行ってみると、アメリカの20の大学からアメリカ人がやってきてブースを構えていました。彼らは大学の紹介されたガイドブックを配り、個別に話をしてくれるのです。大学の魅力、生活環境の説明、外国人受け入れの実績などを詳しく説明してくれ、願書をくれました。今考えると、これは体の良い勧誘です。大学運営のためにお金持ち日本人学生を誘致したいのです。当時の私はそんなことも知らずいくつかの大学の願書を受け取りカウンセラーに相談しました。
後日、楠先生からは、その中から1つだけ実際に願書を提出してみようと提案されたのです。きっとカウンセラーからすれば、まずアプライという面倒な段取りを経験させたかったのでしょう。私は一生懸命アプリケーション・フォームに記入し、高校から英語の成績証明書を貰い、エッセイを書き、その他の資料一式を揃アメリカに送りました。この経験はしておいてよかったです。後に何通もこの書類を制作することになるのですが、まずは気軽に始められたのは大きな収穫でした。
こんな感じで留学に向けた準備が進められて行ったのでした。
留学予備校 2/3 [留学を決意するまで]

河合塾の留学予備校が始まりました。場所は、下北沢の隣駅です。月曜から土曜日まで電車で約1時間かけ通いました。中川も一緒です。
入学前に英語の学力試験があり、受けました。予備校は全部で3クラスあり、1番優秀なクラスは生徒が10人の少数精鋭クラスでした。2番目のクラスは20人のクラス、そして英語ができない人が入る3番目のクラスが20です。私は2番目のクラス、中川は3番目のクラスに入りました。
そして入学式です。この学校は全生徒が50人という小さなものでした。それほど海外の大学に入ろうと思う学生がいなかったのでしょう。高校の1クラス分の生徒しかいません。男女比は半々でした。
この50人は、全員がアメリカの大学に進学を希望していました。ヨーロッパやオーストラリアに行こうとしている人はいません。ただ、人それぞれいろいろなバックボーンを持っていて興味深かったです。
1番目のクラスは、優秀な学生がおおかったです。親類がほとんど医者だそうで、何が何でもエール大学医学部に入りたいという男性。彼は英語能力は50人の中ではずば抜けて1番でした。東北弁の抜けない男性は、家が農家でアメリカの田舎で最新の農業技術を身につけたいと予備校に入ってきたのです。子供の頃親の仕事の関係でアメリカで過ごした女性は、日本文化があわずアメリカに戻りたいとこの学校に来たのでした。
2番目のクラスには、20人が集まっていましたが毎日予備校に通っていたのは15人くらいです。家の関係で留学を断念しなければならない人や、親元を離れて寮で暮らしている人は、東京という町で満足してしまい、アメリカへの夢を失ってしまった人などなど。数ヶ月で数人が消えていきました。
クラスで仲良くなったのはアキラです。彼は神奈川県から通っていました。父親は大手電機メーカーの研究員です。アキラ自身はファッションデザイナーを目指していて、アメリカのデザイン学校でファッションの勉強をするのが夢でした。ほかには、熊本から出てきたリュウも仲良くなりました。彼はビジネスチャンスをつかみアメリカで大成功を狙うというなんだか大きな野望を持っていました。リュウは下北沢の寮に住んでいて、同室には同じ九州出身の山田がいました。彼はおとなしいのですが映画監督になる夢を持っていました。
3番目にクラスにおおかったのは、日本の大学に入れなかった学生です。親が大金持ちでアメリカにでも行ってこいと言われた目標なき人々です。ハリウッドで俳優を目指す人、ロサンゼルスで数年暮らせば良いという人など、なんとなくやる気がない感じのするクラスでした。中川は、そんな金持ち達と仲良くなり、夜な夜な新宿や渋谷で夜遊びするようになっていきました。
それぞれ個性の強いティーンエイジャーが日本全国から集まっていました。私は東京の高校を卒業し、アメリカの大学を目指すとても普通な学生でした。クラスも真ん中だし、個性も強くないし、見た目も普通。逆にこの普通さが目立つくらい、予備校に集まった学生は変わっていました。
そんな、人々が集まって授業がはじまりました。河合塾グリーンアカデミーは、午前中の授業と午後のカウンセリングに分かれていました。
午前中は、TOEFLの成績向上を目指す勉強を中心に行います。アメリカの大学に入るためには当時550点以上のスコアが必要でした。この数字を得るための勉強です。そして、アメリカの大学に入った後、きちんと授業に着いていくための勉強もしました。アメリカの大学の仕組みやノートの取り方など、実際に入学後に困らないための勉強です。これは後でとても役に立ちました。
午後は、カウンセリングです。自分の人生の目標は?そのために選ぶ大学は?行きたい大学に入るためのアプローチは?時間をかけこれら目的を整理していきます。私の場合、人生の目標は映画を作るという仕事に従事したい。行きたい大学は、ジョージ・ルーカスが卒業したUSCかUCLA。そのためには一生懸命英語を勉強する。といった話をしたのを覚えています。
しかし、アメリカの有名大学に入るのはそんなに甘くはないのです。簡単に入れるならもっと沢山の学生がトライしているはずです。50人の学生が行きたいと思っていた大学は、ほぼ全員が入れないことがわかりました。まず、英語能力が規定値に達しません。そして高校時代の成績が要求値に達していないのです。アメリカの大学は、入学試験で合否を判定しません。高校時代の成績や日常生活の経歴、そしてTOEFLなどの公的な機関が行っている学力試験の数字を総合的に見て判定するのです。今更ですが、高校時代もっと良い成績をとっていればと後悔しました。そして、取り返しのつかないことに悩みました。
現実を突きつけられおおくの学生が落胆し、留学予備校に入ったことを後悔し始めたとき、河合塾は素晴らしいカウンセラーを招聘したのです。ニューヨークにあるドルトンスクールの先生です。ドルトンスクールというのは、アメリカの富裕層の子供がお世話になる学校で、カウンセラーがなんとかして有名大学に子供が入れるよう動いてくれるのです。普通は、個人が払えるような金額ではないギャランティーを要求されますが、河合塾は、かなりの金額を出して先生を日本に呼んでくれ、我々学生のカウンセリング行ってくれました。
私に与えられたのは2時間です。そこで言われたことが私の留学成功の大きな鍵になりました。
まず、USCやUCLAなど西海岸の大学を目指すべきではないと言われました。西海岸には不良日本人が沢山いて私のような気の弱い学生は、事件に巻き込まれる可能性が高いこと、そして日本人と仲間になり卒業するのがほぼ不可能になることなど指摘されました。
そして、東海岸に行くことを勧められたのです。その頃、日本ではアート映画ブームが起きており、ジム・ジャームッシュやスパイク・リーなどが注目されていました。彼らが卒業しているNYUにも興味があったので学校名を口に出すと、私の学力では入学が難しいと指摘されました。
先生は、画期的な提案をしてくれました。まず、ニューヨーク州立大学に入りなさい。州立大学ならば私の学力でも入学でき、授業にもついていけるはずだと。そこでAを取り続け、校長先生から推薦状をもらえばNYUに転入できるはずだと言うのです。大学に2つも行くのは大変だなあと思っていると、費用についてもアドバイスしてくれました。NYUは、私立大学なので授業料がとても高いのです。よって授業料の安い州立大学で単位を稼げば、最終的には留学費用を圧縮できるという美味しいお話です。
結果、河合塾に行ったことで一番良かったのは、この2時間のカウンセリングでした。この2時間が、その後の私の人生を大きく変えたと言っても過言ではありません。そのくらい意義のあるアドバイスだったのです。
私は、ドルトンスクールのカウンセラーの指示に従い、勉強をしてニューヨーク州立大学に入るべくアプリケーション・フォームを取り寄せ準備を進めていきました。
他の生徒の反応は様々でした。きちんと目標を提示できなかった生徒は、当然はっきりとしたカウンセリングができなかったようです。中にはカウンセラーの意見を聞かない学生もいました。西海岸の大学に固執している人がおおかったです。いろいろな考え方があり、正解がある訳でもないのですが、その後の50人を見ると、このカウンセリングをどう受け入れるかで人生がおおきく左右されていくのでした。
留学予備校 1/3 [留学を決意するまで]

ニューヨークの田舎にある州立大学に入学し1年が経ち生活が安定してきました。
さて、では私がどのようにアメリカの大学に入ることができたのか、時間を戻してお話しましょう。
子供の頃「オズの魔法使い」を見て映画の仕事に就きたいと思い立ち、高校まで日本で過ごし漠然とアメリカの大学に入って勉強したいという願望を持っていたのですが、実際にどのようなプロセスを辿りアメリカの大学に入るのかは全く知りませんでした。当時私の周りにはアメリカに行った人などおらず、ネットもなかったので十分な情報を入手することはできませんでした。
高校時代、友人たちと通っていたのが河合塾です。当時は高校の勉強を補う目的で池袋に週数回通っていました。実は河合塾ではそれほど熱心に勉強していた訳ではなく、田舎の高校が終わった後に東京に出られるのが楽しかったのです。池袋という雑多な街の夜は、街にいるだけで田舎の少年には刺激的でした。そして男子校だったので、東京のきれいな女子高生たちと教室を同じにするだけで行く意義があったのです。といっても、池袋で悪いことをする訳でもなく、女子高生とお友達になって喫茶店に行く訳でもないのでした。ただ、そのような都会の環境に自分がいることだけで満足していたのでした。
そんな河合塾の入り口にポスターが貼られていました。模擬試験があるという告知ポスターに並んでグリーンアカデミーというポスターがありました。Go for it !というコピーとともに留学コースと書いてあったのです。実は河合塾は留学を希望する学生たち向けに予備校を設けていたのでした。そこで、早速その留学コースの資料をもらいに事務所に行きました。一緒に池袋に遊びにいっていた高校の友達は、喫茶店で私の持っていた資料を見て不思議がっていました。それほど海外留学は自分たちにとって日常ではなかったのです。
後日、私は本屋さんで留学に関する雑誌を立ち読みし、いくつか興味のある本を購入しました。そして、アメリカ留学の進め方を理解しました。そして実際に行きたい学校がどこなのかを調べ始めたのです。
そこには、高校生には夢のような世界が広がっていました。広いキャンパスの写真、アメリカ人学生と一緒に食事をする日本人学生、学校の設備、休日の過ごし方 etc ...
心はすっかり留学気分です。早速両親に留学したいという意思を伝えました。しかし、自分が行ったことのないアメリカの学校に息子を行かせるということを簡単に決める訳にはいきません。何回か話し合いをして、まずは日本の大学も視野に入れて勉強するように言われました。
私は日本の大学に行くつもりはなくアメリカに行きたいという強い意志があったので、日本の大学は受験せず高校を卒業したら、日本の大学に入る予備校に通いつつ留学の準備を進めました。そして数ヶ月後に両親は私の希望を理解し、留学予備校に入っていいと言ってくれたのです。
留学予備校に行って良いと親が決断するのに約半年かかっています。この間の時間は実質無駄になっています。日本の大学に入るための予備校の授業料も無駄になっています。でも両親はそれほど苦渋の決断だったのでしょう。自分の子供がアメリカという見知らぬ土地で大学に入り、しかも卒業することはとても難しいことだと気づいていたに違いありません。それでもアメリカに行くと言い張る息子の意思を尊重したのでしょう。
父親は、いくつかの約束を迫りました。まず、ちゃんとアメリカの大学を卒業すること。そして卒業後は日本に戻ってくること。
私は約束を守ることを誓い、河合塾の留学予備校の説明会に参加しました。
説明会によると、これがなかなか大変だということがわかりました。そんなに簡単に有名大学に入れないこと、卒業は相当厳しいこと、金銭的にも結構かかることなどが説明されました。しかし、もう引き返す訳にはいきません。私は入学願書を提出し、正式に河合塾留学予備校に入ることにしました。
この私の行動を見て、高校時代の友達が急に自分も留学すると言い始めました。中川という友人は、高校ではクラスが一緒になったとこはありませんでしたが通学が一緒で、予備校も一緒でした。通学や池袋に行く時は電車が一緒になり、なんとなく話があったので、時々遊んでいたのですが、それほど仲が言い訳ではありませんでした。そんな中川は、結局一緒に留学予備校に入ってしまいました。
一時帰国 [ニューヨーク州立大学]

ニューヨークに到着してから四季を過ごし、来た頃と同じ冬になりました。
予想していたよりも遥かに美しい春、夏、秋を経験し、ニューヨークの自然の素晴らしさを知ることが出来ました。
そして、アメリカ生活も当初は大変でしたが、1年経過すると安定し、ニューヨーク州立大学の授業もなんとかついて行けるようになりました。
そして、住居は紆余曲折ありながら、一人暮らしをはじめ、車も購入したので、とても楽しいニューヨーク留学生活となってきたのです。
ここまで辿り着けば、とりあえず留学はなんとかなりそうだと思えました。あとは、がんばって勉強して早くトランスファーすることです。夏休みは、半分を授業に割り当て、予定の単位を取得できていたので、冬は休みをとって日本に一時帰国してみようかと思いました。
両親に提案したところ、了承を得たので早速チケットを入手しました。アメリカでは帰国便のチケットを日本よりも安く入手できる方法がありました。テレビでは、さかんに帰国便のCMを放送していました。そこで、HISニューヨークという旅行代理店にお願いしてチケットを格安で購入しました。HISは、その後日本に進出してメジャーになった代理店です。価格は1000ドル程度でした。航空会社はJALです。来るときは高くて購入できなかった日系航空会社です。これは嬉しかったです。
12月、3回目のセメスターを無事終了し成績を確認すると、直ぐ準備を始めました。来たときはスーツケース一個だったのですが、いろいろと買い物をして荷物が増えたことを再認識しました。
12月20日。空港までは自分の車で向かい、車は父の会社のニューヨーク支社の方の家において貰うことになりました。空港では、JALのカウンターです。
ニューヨークに向かったときは、成田空港で出国手続きをしたときから海外に出てしまったという寂しさがありました。そしてJFKに到着した時はとても寒く遠くに来てしまったなあと思いました。
不思議なことに、帰りのJALのエコノミーカウンターで日本人スタッフに対応された時、その瞬間から日本を感じました。まだニューヨークなのに日本にいるような心地よさがそこにはありました。
スーツケースを預け、出国ゲートを通りゲートへ向かいます。ここのフードコートには日本食のレストランまであります。周りは日本人観光客がたくさんいて日本語が飛び交っています。ニューヨークにもYaohan意外にこんなに日本を感じる場所があるんだなあと驚いてしまいました。
JALの機内は「和」のおもてなしです。当時はビジネスクラスに寿司カウンターがあり、サービスの凄さに驚きました。私はエコノミークラスでしたが十分に贅沢な感じを満喫しました。
成田には高校時代の友人が買ったばかりの車で迎えに来てくれていました。とても嬉しかったです。そして埼玉県にある自宅まで直行です。車に乗る前にしたことは、缶コーヒーを購入です。アメリカには缶入り飲料の文化がないので、あの日本独特の暖かい缶コーヒーを飲みたかったのです。今ではまずくて絶対に購入しない缶コーヒーですが、当時はあの味も日本を感じる重要アイテムだったのです。
車の中では、1年間アメリカで体験した様々なことを話しました。友達はよく理解できていないようでした。日本の大学に入っていれば苦労することのなかったはずなのに何でわざわざ辛い思いをしているんだろうと彼は思っていたようです。逆に日本の大学性生活の殆どはバイトで、バイトで知り合った友人の話をされ驚きました。勉強は殆どしないようで、バイトでお金を稼いで遊ぶのが日本の大学生の標準的な生活なんだと聞かされました。そういう社会勉強ができるのは羨ましいですし、それでも大学を4年で卒業できるシステムが不思議でもありました。日本を出てたった1年でこんなにも異なる環境で過ごすことになった高校の同級生との距離感を感じることになったのにもある思いがありました。
実家では、母親が豪華な食事を用意して待っていてくれました。いつも暖かく迎え入れてくれる家族のありがたさをこのとき初めて感じました。いままで一緒に住んでいるとこの暖かさは普通のことであまり気にしませんでしたが、1年間アメリカで生活を経験してきた私には、家族が輝いて見えました。
夜は、遅くまで1年間の話をして熟睡しました。
ニューヨークへ戻るのは1月20日です。3週間日本に滞在し年越しもできるのです。
外は寒いですが、家族、友人ととても暖かい時間を過ごすことができました。
3rd セメスター 後半 [ニューヨーク州立大学]

関田が家に来てから、楽しいこともありましたが困った事態となっていきました。
関田は、ニューヨークに来てとても落ち着いてしまいました。前の大学でよほど辛い思いをしたのでしょう。
彼は私の家に居候状態です。大学が決まるまでは特にすることもなく私よりも家にいました。
困ったことは、1)英語能力が落ちる。2)勉強時間がとれないことでした。
1)英語能力
やはり同居人が日本人だと、日本語を話してしまい、1年かけて苦労して覚えた英語力がどんどん落ちていきました。これは授業に出席するだけで分かるほどの落ち込みです。ヒアリング能力までもが落ち始めていったのです。
2)勉強時間
以前、数人と同居したとき感じたように、結局同居人がいると勉強時間が減っていくのでした。これも困りました。なるべく授業が終わったら大学の図書館で勉強するようにしましたが、夜は家に帰ります。家ではなかなか勉強できません。朝、早起きして図書館に行ったりしましたが、絶対的な勉強時間が減っていくのは明らかでした。
そこで、関田には申し訳ないのですが、引っ越しを促しました。とにかく一緒に家を探すのです。彼は腰が重くなかなか活動をしません。後で考えると費用の問題があったようです。勢いで大学を辞めたのですが、引っ越し費用がなかったのです。私の家に居候している限りはお金がかかりません。それで3ヶ月も居座ってしまったのではないでしょうか。
結局、彼は私と同じ大学に入学し、大学近くの家庭にホームステイすることになりました。ホームステイと言っても、同じ屋根の下に住むのではなく、家の庭にある大きな小屋の2階に住むのです。1階は車庫です。ですから、適度にプライベートが保たれました。
関田が引っ越していったあとは、やっと元の生活に戻れました。といっても、友人が同じ大学にいるのです。今までのように日本人コミュニティと関わりを持たないで頑張ってきた環境とは明らかに異なります。
今後は、関田とどうしてもコンタクトをとり続けることになるのです。そして、日本語を話せる友人が近くにいるのは、それなりに楽しいのです。
3rd セメスター 前半 [ニューヨーク州立大学]

1989年の秋です。
一人暮らしにも慣れ、車の運転も楽しくなり、夏休みを満喫し、アメリカ生活はすっかり楽になりました。
何故か言葉も使えるようになっていました。学校で勉強を頑張り、引っ越しなど街の人々とも交流していくうちに自然と英語が話せるようになったようです。
私の住んでいたニューヨーク州ロックランド郡では、街の木々が黄色く色づきはじめました。どうやらこのあたりは紅葉があるようです。風がちょっと冷たく感じる頃、秋セメスターが始まりました。3回目のセメスターともなると、授業についていけるようになり、既に語学学校の生徒でもなくなっていたので、どうどうとレギュラーのクラスを申し込みました。インターナショナル・ビジネス、マーケティングなどを受けましたが、英語がわかるようになるとそれほど授業は苦になりませんでした。そして宿題もきちんと提出し、ミッドタームも良い成績で終えることが出来ました。本当に不思議ですが、前2セメスターの苦労はなんだったんだと思うくらい普通に授業について行けるのでした。
そんな中、友人から1本の電話が入りました。日本の留学予備校でクラスが一緒だった関田からです。
関田は、私より数日遅く日本を出国しました。そしてサウス・カロライナにある大学に入学したはずです。彼からは、今通っている大学では自分がダメになるからニューヨークにトランスファーしたいというような話を聞かされました。そして、直ぐにでもニューヨークの大学にトランスファーしたいので、暫く私の家に泊めてくれないかという相談でした。
私は、自分の生活がやっと安定して授業も楽しくなってきたことろなので、今関田と同居すると、折角の英語能力が落ちてしまうのではないかと不安がありました。しかし、友人が困っているのに見捨てるわけにはいけません。快諾すると、数日後に関田はワーゲンに荷物を積んで現れました。
彼は、学校で人間関係に問題があったようです。それも日本人同士。私は日本人と基本的に付き合わない方針を貫いていてよかったなあと思いました。米国に来て日本人同士で喧嘩したり啀み合ったりするのは、本当に馬鹿げていると思います。彼の場合は、学校しかない田舎町で閉塞感が漂い、ついつい日本人とつるんでしまったそうです。
彼の車に積んであるのは、彼の全財産ではないようで、一緒にサウス・カロライナの学校にある彼のドーム(学生寮)につきあうことになりました。秋のセメスターは祝日がけっこうあったので、それを利用した1泊2日の旅行です。
二人でゴルフに乗り込み、ニューヨークを出発。ノーフォークまでは、この前行ったワシントンの旅と同じ道を走りました。もう来ないと思った道を1ヶ月後に走るとは夢にも思いませんでした。そして、ノース・カロライナからサウス・カロライナに入ります。このあたりは、走っても走っても森が続きます。この奥に本当に街があるのだろうか、と思うくらい途中は何もありませんでした。
数時間森を走ると、そこにようやく街が見えてきました。街と言ってもそこにあるのは、ゴーストタウンのようなとても寂しい集落でした。ここは、大学の城下町です。住んでいるのは学校に通う学生と関係者。そしてのこりは老人です。子供や30代、40代の働き盛りの住人にであうことは殆どありませんでした。ここは、完全に孤立している街なのです。
学校を訪ねると、それなりに大きな学校でした。でも皆太っているのです。ここでの楽しみは「食事」だけです。毎日ダイナーやチャイニーズで食事をすることだけが彼らの生き甲斐なんだそうです。これには驚きました。日本人の留学生は30人くらいいるのですが、昼ご飯の話題は夕飯何を食べるかなのだそうです。といっても夕飯に行ける店はチャイニーズかマクドナルドだそうで、話はほぼ毎日同じ事の繰り返しだそうです。30人の日本人留学生にもいくつか派閥があり、喧嘩したり恋愛対象を変えたりして生活していると関田は説明してくれました。こうなると動物園の猿山状態です。人間の尊厳などなく生き物としての本能でただ生活しているだけのように見えてきました。
寮は恐ろしいほど汚く、ビックリしました。特にトイレは扉がなく、皆座りながら隣の人と話をしているのです。シャワー室の床には、なにやら黒い人工芝のようなものが敷いてあります。よく見るとそれは人の髪の毛です。シャワーの最中にバリカンなどで髪の毛を刈る学生がいるようで、その髪の毛が蓄積され芝生のように床全面に置かれているのです。学生はシャワー用のサンダルを持っていて、サンダルでシャワー室に入りシャワーを浴びていました。
この環境を見て、私は関田に早くニューヨークにトランスファーすべきだと力説していました。
我々は、関田の荷物をワーゲンに積め、近くのモーテルに1泊し、ニューヨークに帰ってきました。
関田は、直ぐに家を探すと言いつつ、結局2ヶ月も私の家に居候していました。
ワシントンD.C.へ 2 [ニューヨーク州立大学]

長い長い橋を渡ると、そこはNorfolkという街でした。結構大きな港町で海軍の基地があるようでした。
私は、この辺りで一泊しようと思い、高速道路沿いの街に降り立ちました。
そして、洒落た感じのモーテルを見つけました。この頃はホテルを予約するという技をしらなかったので、適当に決めたのです。日が暮れかかっていたのでここが今日の限界です。
夜に車を走らせるのは、とても危険だと何人もの人に注意されていたのでタイミング的には良かったと思います。
ホテルでは、夜遊びに行かない方がよいと言われました。まだ人種偏見があるし、この辺りは南部ですので気をつけるに超したことはありません。早速、チェックインして食事をして早めに寝てしまいました。
翌日は、朝ホテルを出発。Baltimoreを通り、ワシントンD.C.に到着しました。なんと美しい街でしょう。私はストリップ近くのラマダホテルにチェックインし、早速観光をして回りました。
ジョージ・ワシントンが暗殺された劇場、FBI、ホワイトハウスなどを見て回りました。私が一番行きたかったのはスミソニアン博物館です。その中でも航空宇宙博物館が一番楽しみでした。いくつかのスミソニアンを見て回り、いよいよ航空宇宙博物館です。期待を裏切らない展示物に感激し、くだらないお土産まで購入し大満足の1日でした。
次の日もワシントン観光です。アーリントン国立墓地など郊外を見て回り、午後D.C.を出発しました。
帰路は、95号線を北に向かいます。ワシントンを出てしばらくすると夕方になったので、Wilimington近辺で一泊しました。この街は本当に何もないところで、インターチェンジを降りるとそこには数件のモーテルと数件のレストランがあるだけです。
地元のレストランに入るのは気が引けました。昔映画で、よそ者がバーに入ると地元衆が露骨に嫌な顔をする場面を見ていたからです。
ということで、デニーズを発見したので入りました。店に入るとテーブルに通されます。席について待っていると、10分経っても20分経ってもメニューを持ってこないのです。これでは注文もできません。よく見るとこのレストランは2つの大きな部屋があり、我々のいないほうの部屋ではお客さんが沢山いて店員が働いているのがみえました。忙しいのかなあと思ってよく観察してみて愕然としました。我々のいる部屋は、有色人種ばかりなのです。そしてもうひとつの部屋は白人ばかり。だからサービスが悪いのです。私は、席を立ち混んでいる方の部屋に行きメニューがほしいと告げました。すると店員がメニューを持ってきたのです。オーダーにも時間がかかりそうだったので、店員を引き留め、直ぐに注文をすませました。1989年になってもまだ人種差別があるなんてとても驚かされました。そしてかなり待たされ注文した食事が出てきました。私はとても嫌な思いをしました。おそらく法律があるので、こちらから動けば彼らは渋々ですが動いてくれます。法に触れない範囲で差別をする程度なのでたいしたことではないのかもしれませんが、自分では絶対に人種差別はしないとこのとき決意しました。それ以降、私は一度も人種差別をしたことははりません。自分が差別する側の人には絶対になりたくありません。今後も私が死ぬまでこのポリシーは貫くつもりです。
旅の最終日は、一気にニューヨークまで走りました。フィラデルフィアを過ぎるとニュージャージーに入りとてもほっとしました。もう家はすぐ近くです。そしてあっという間に到着しました。
アメリカに来て、ここまで長期間旅行をしたことはありませんでした。だからとても疲れましたが観光もでき、人種差別にもあい、密度の高い旅行となりました。
若い自分にとって、とても刺激的だったので、今後も車でいろいろなところに意向と思いました。
ワシントンD.C.へ 1 [ニューヨーク州立大学]

米国に来て、初めての長期休暇が始まりました。アメリカではどの学校も6月から9月まで長い夏休みがありますが、実は夏の間も授業は行われていて短期集中で単位を取得できます。私は夏休みの前半は勉強し、後半を休むことにしました。
まず、計画を立てたのは自分で車を運転してワシントンD.Cまで行ってみることでした。地図は既に購入していたので、ルートを事前にチェックしておきました。
まず、ニュージャージーを南下します。ニュージャージーには南北にニュージャージー・ターンパイクという高速道路が走っているので、同じ道をまっすぐ走るだけです。2時間半くらい走るとフィラデルフィアを右手に見ながら、デラウェア州のウィリントンという街に着きます。ワシントンまでの最短ルートは、ここからメリーランドに入るのですが、私は、デラウェア州を南下して、ヴァージニア州ノーフォークを目指しました。そこから北上しワシントンに辿り着くのです。なぜ遠回りをしたかというと、チェスアピーク湾にかかる長い橋を渡るためです。地図で見る限りかなり長い橋です。このあたりはソフトシェルクラブが名産だと聞いていました。よく食べる蟹が住んでいる場所も見てみたかったのでした。
出発当日は快晴。私のプレリュードは前日2時間掛けて自分で洗車してピカピカでした。朝9:00出発です。今回は大学で知り合った友達と一緒です。
ニュージャージーは、空港のあるニューアークを過ぎた頃から草原となりました。所々沼地もありましたが、周りには何もありません。ターンパイクの真ん中辺りに、ニューヨーク近郊では一番大きな遊園地シックス・フラッグが経営するグレート・アドベンチャーがあります。殆どの車はここで降りてしまい、その先は交通量も激減します。ニュージャージー南部は、アメリカっぽい平原がひたすら続きました。
そろそろニュージャージーも終わると思う頃になると、急に大きな街が出現します。ここがフィラデルフィアです。私には「ロッキー」のイメージが強いのですが、学校ではフィラデルフィアは治安が悪いので近づかないよう言われていたので、街には立ち寄りませんでした。現在では治安も良く綺麗な街なのですが、90年頃は汚くて危ない街だったのです。
デラウェア・リバーを超えると、そこはデラウェア州です。日本ではあまりなじみがないかもしれませんが、ワシントンD.C.の東側に位置する歴史ある州です。この州をさらに南下します。昼は道沿いのファースト・フード店に入りました。この辺りでは、店にはいるとなんとなく人の目が気になりました。やはりアメリカの田舎ということもあり人種偏見があるのでしょう。嫌な思いこそしませんでしたが、あの視線は良いものではありません。この州には、Mr.ドーナツが沢山ありました。日本の同名チェーン店と関係があるかどうかわかりませんが、何故かこの州にだけ沢山「ミスド」があるのが面白かったです。
デラウェア州は小さな州なので、1時間もすると縦断は終わってしまいました。次の州はメリーランド州です。メリーランド州は、20分横切るだけで、すぐに次のヴァージニア州に入りました。
デラウェア・リバーから先、デラウェア州全部とメリーランド州の一部、そしてヴァージニア州は、実は大きな半島で、私は1時間半程この半島を南下していたのでした。そして半島の先端には対岸に向けてとても長い橋が架かっているのでした。
車を走らせると、どんどん両側の土地がなくなっていき、両側に海が迫ってきます。そして目の前には大きな海、そして水平線に向かって突き進む長い長い橋が見えてきました。これがチェスアピープ・ベイ・ブリッジ・トンネルです。あまりに長いため途中2カ所がトンネルになっています。
距離は約9 mile、橋の途中で車を止めて海を見ると、そこは大海。波が巨大です。でも、この橋周辺には沢山の人が車を止めてのんびり釣りや蟹取りをしていました。陸から離れているので、皆大量のようです。
このような長い橋を見るのも渡のも私にとって初めての経験でした。あまりの大きさに驚き、アメリカの大きさ、技術力の凄さ、経済力の強さを感じ、自分がここにいることが不思議に思えました。
Summer 1989 [ニューヨーク州立大学]

2nd セメスターが終わる頃、大きな事件が起きました。
共同生活をしていた箱山と江藤と私は、言い距離を置いて過ごしていました。江藤と私は毎日一緒に学校に行き、途中から二人共に車の免許を取り車を購入したので、それぞれの車で通学していましたが、夜は一緒に食事をすることがおおかったです。
江藤は、生活費を賄うために箱山が働いていた日本食レストラン「Maiko」で時々働くようになっていました。9.11前は留学生は不法ながら結構日本食レストランで働いていたようです。
箱石と私はそれほど一緒にいませんでしたが、時々夜中に3人でマンハッタンのチャイナタウンまで車で遊びに行き、中華料理を食べたりしていました。
しかし、箱山と江藤は、何が原因かわかりませんが、喧嘩を始めたのです。そして殴り合いの末決裂しました。江藤は当時付き合っていた彼女の家に行き、箱石は家に帰ってこなくなりました。
こうなると、共同生活はできません。私も日本人との生活は本意ではなかったので、このタイミングで共同生活は解散となりました。
私は、いくつか物件を探し、Monseyという街に落ち着きました。ここは、学校にも近く、始めに住んでいたSpring Valleyの隣町です。目の前にRt59が走っていてバスでも簡単に学校に行けるのです。歩いていける範囲には、ショッピングセンター、小さな専門店街(ここにはアート系の映画館もありました)、そしてSpring Valley High Schoolがあり、校庭でマラソンもできました。
私の住むValley View Gardenは、外観も洒落ていて、部屋は大きなリビングと大きな寝室がありました。この辺りではなかなかの物件です。
引っ越す前に、週末私は、車でボストンの手前にある「ケープコッド」に行ってみました。鯨見学をするためです。初めての長距離旅行です。友人と2人で行ったのですが、ホエール・ウォッチングに参加したくて行ったのはいいのですが、海の上はとても寒く辛い観光となりました。祝日だったこともありホテルはどこも満室でした。結局ホテルがみつからず日帰りで家まで帰ってきたのです。朝の7時に出発し、寒い思いをしながら鯨を見て、家に着いたのは朝の3時です。この米国に来て初めての小旅行は散々なものでした。
以後、旅行に行く前にはきちんと計画を立て、ホテルはできるだけ予約するよう心がけたのでした。
夏休みにはいると、私は前のセメスターの挽回をするべくクラスを取ることにしました。殆どの学生は、夏休みは3ヶ月間休むか仕事をします。大学は夏休みの3ヶ月間を前半と後半に分け授業を行います。通常のセメスターより期間が半分しかないため、1回の授業は長く、密度も進み方も早いのです。私は夏休みの前半を勉強に充てることにしました。早い授業についていくのは不安があたっため、まずは、体育を取りました。週に2時間テニスをするのです。後は、前セメスターから引っ張っていたAccountingのテレコースを引き続き行いました。テレコースというのは、大学の図書館の地下に行き、そこにある映写機能の付いたデスクに座り、スライドを見るというクラスでした。当時はまだビデオ教材やPCでのシステムが確立されていなかったようで、入り口で学生番号を伝えると、No.1から順にまるいディスクを渡してくれます。このディスクにはスライドが50枚くらい並んでいます。この大きなドーナツのようなものとカセットテープを専用机にある機械で再生するのです。ヘッドホンをして、モニターを見ると、授業が始まります。「ピッ」という音が鳴ったらボタンを押すと次のスライドになります。こうして自分のペースで約1時間授業を受けます。私にとって、このテレコースはとても助かりました。まずクラスで発言しなくて良い。そして分からなかったらテープを巻き戻してもう一度聞ける。自分のペースで授業が受けられるのです。アカウンティングは、日本で言う会計学です。しっかりと理解しておかないと後でわからなくなってしまうのです。テレコースは期間が半年ほどあるので、半年の間に全てのスライドを見ればいいのでした。私は2ndセメスターから夏にかけて好きな時間に図書館に行って、コツコツとスライドを見て勉強してきました。スライドを5回見ると小テストがありました。テストはほぼ毎日行われており、他のテレコースの学生と一緒に受けるのです。試験会場で学生証を見せると、受けるべきテストの問題用紙が渡されます。だから、同じ時間に同じ会場でテストを受けている学生は、皆違う問題を解いていることになります。
こうして、自分のペースで授業を進めてきました。この授業の素晴らしさに気付いた私は、Marketingもテレコースでトライしました。この夏の1ヶ月半は、体育とテレコース2つで頑張ったのです。
Accountingは、スライドを見て、小テストを受けるのは、夏休みに入った直後に終了しました。クラスの最期にはテストがあるわけではなく、小さな会社の1年分の帳簿を付けて提出することが課題でした。大量の領収書や請求書、手形のコピーが渡され、これら全てをまとめてバランスシートを完成させるのです。これがなかなか大変な作業でした。実は江藤が会計を得意としており、私は早速彼に助けを求めたのでした。食事を奢る(といってもマクドナルドです)変わりに、彼は、バランスシートを一緒に制作してくれました。この作業は、ほぼ丸1週間かかりました。
夏休みは、体育1クレジット、Accounting 101 3クレジット、Markething 101 3クレジット、合計7クレジットを獲得しました。
そして、いよいよ夏休みです!夏休みは日本に帰ることはせず、アメリカを旅しようと考えていました。まずは、ワシントンD.Cまで車で行く計画を立てました。そして、ナイアガラの滝にも行こうという計画を立てました。勿論マンハッタンにも遊びに行きます。
3rdセメスターが始まるまでの1ヶ月半は、楽しい旅行です。
次回からこの旅行を詳しく記します。





