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39. ニューヨーク州 アップステート ロックランド郡 [ニューヨーク州立大学]

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今回は私がアメリカに到着し、初めて暮らした町と大学について記そうと思います。
ニューヨーク州
nystate.jpgニューヨークというとほとんどの人が高層ビルの立ち並ぶ摩天楼と自由の女神をイメージすると思います。しかしあのニューヨークは、ニューヨーク州の一番南に位置するニューヨーク市のマンハッタンという小さな島なのです。ニューヨーク州はマンハッタン島から北、カナダ国境まで広がる広大な州です。車で移動すると、マンハッタンからカナダ国境までは6時間以上かかります。マンハッタンから北西、ナイアガラの滝までは9時間もかかるのです。その広大な土地のほとんどは山や森です。高層ビルや大都市はありません。
この広い広いニューヨーク州の州都はアルバニーという町です。ちょうどニューヨーク州の真ん中にあります。オールバニは典型的なアメリカの田舎町です。州内には、この規模の大きめの町がいくつかありますが、それ以外はとにかく森林地帯です。私はこの事実にとても驚きました。摩天楼は一部であっても東京のように郊外には延々と住宅地が広がっていて、ところどころに中規模な衛星都市が点在するのだと思っていたからです。実は東京や大阪のような大きな都市はアメリカにはありません。大都市といわれるニューヨークやシカゴ、ボストンは、町を出ると急に森になってしまうのです。そんな予想とは大きく異なる山の中に連れてこられたのでした。ニューヨーク州は郡という地区に分かれています。ロックランド郡はニューヨークの州内で一番小さな郡です。

ロックランド郡
rockland2.jpg私がホームステイをすることになったのは、ニューヨーク州の森の中にあるロックランド郡という地区です。といってもマンハッタンからは車で1時間くらい北に行ったところですので、田舎の生活をしながら大都市にもアクセスできる立地です。郡の南はニュージャージー州です。ハドソン川を挟み、日本人が多く住むウェストチェスター郡と隣りあっています。
ロックランド郡の面積の北西地域は州立公園です。それほど高くない山々が連なっていて、湖や綺麗な清流が流れています。この一帯をベアーマウンテンと呼び住人にとっての憩いの場所となっています。夏は湖に作られたビーチで遊んだり、釣りをしたり、山歩きをします。冬はなだらかな斜面ですがスキーもできます。郡の東側はハドソン川です。この町は全体的に西が高く東が低いので、西の様々なところからハドソン川が見えます。特に夕方は水面に映る夕日がとてもきれいです。
ロックランド郡は、古くから人が住んでいたようですが、急速に発展したのはハドソン川にかかるタッパン・ジー・ブリッジが開通してからです。この橋を使うとマンハッタンまで車ですぐにアスセスできますし、富裕層の住むウェストチェスター郡に買い物に行ったり食事に行ったりできます。
私が住んだ家は、ロックランド郡の真ん中にあるスプリング・バレーという小さな町です。ここは、森の中に家が点在しているような典型的なアメリカ東海岸の田舎町です。家と家の間隔は適度にあいていて、大きな集合住宅はなく、コンドミニアムやタウンハウスといわれる高くても3階建の小規模な住宅がいくつかあるくらいです。日々の生活はこのスプリング・バレーで行います。郡のメインストリートはルート59で、片道1車線の道路が東西に走っています。スプリング・バレーも59沿いに広がる町でした。

メインストリート59号線   
rockland-county-new-york-map.jpgサファーンからスプリング・バレーを通りナイアックまで東西に走る59号線は、東西を車で1時間程で結ぶ郡のメインストリートです。西のサファーンはとても歴史のある街で古き良きアメリカの面影を残しています。ここには古くからある映画館が有名です。今でもきちんとメインテナンスが行われていて地元の住人に愛されています。サファーンからスプリング・バレーまで東に進むと、59号沿いには、小規模なショッピングセンターが2~3km毎に点在しています。ショッピングセンターは大きな駐車場を囲んでいくつかの専門店と食料品店が並んでいるタイプで、どこのショッピングセンターに行っても店名は異なれど店のラインナップはほとんど変わらないのです。私の家の近くにあったショッピングセンターは、大きな食料品店のPathmark、日曜大工用品店のRickel、バーガーキング、中華料理のテイクアウト、写真屋さん、リカーショップが並んでいました。さらに車で5分くらい走るとそこには食料品店のShoprite、日曜雑貨店のWALMART銀行CITIBANK、ピザのデリバリー店、カフェがありました。生活する上で、住人は自分の家に一番近いショッピングセンターに車で行き買い物をします。基本それだけで一通り買い物ができてしまうのです。食事は、このようなショッピングセンターにあるレストランを利用します。ほとんどがピザ屋、中華料理屋、イタリアン、インド料理などで、店の内装は簡素で価格は安いです。味は結構おいしく、どこも満足できました。

ナニュエット・モール
59号線をさらに東に進むと、当時ロックランド郡最大のモールがありました。ナニュエット・モールという大きなショッピングセンターは、巨大な駐車場の真ん中に建っていました。モールは2階建てで長い通路の両脇に100を超える小売店が並んでいます。通路の両端にはデパートがあります。ひとつはSEARS、もうひとつはMacy’sです。町にあるショッピングセンターのような食料品店はありません。ほとんどが衣料品店です。ナニュエット・モールはロックランド郡の交通の要にもなっています。郡内を走るバスやマンハッタンに向かうバス、空港に向かうバスなどがここに集まっています。郡内からここに来ればどこにでも行けるようになっていますし、バスを待つ間にモール内で買い物をしたり食事をしたりできます。買い物もできてバスの乗り換えポイントになっているので、いつも人で賑わっています。モールの周りには映画館やレストラン、食料品店、車の修理工場などが集まっていて、モール周辺は大きな商業地帯になっています。駐車場は大きいのですがキャパ不足になるのは時間の問題と思うほど、多くの近隣住民が集まってくるのでした。
車を持っていなかった頃の私は、時間がある時に行く場所と言ったらこのナニュエット・モールでした。大学からバスでここにきて買い物をしたりフードコートで食事をしたりしました。服もここで買いました。マンハッタンにン行く時は、ここで長距離バスに乗り換えました。

ナイアック
59号線をさらに東に進むと坂を下りハドソン川が見えてきます。ハドソン川沿いの町がナイアックです。ここはかつてニューヨーク市に住む住人の避暑地として栄えたそうです。現在も当時の面影を残していて、ナイアックのメインストリートは、古き良きアメリカのデザインでアンティークショップなどが並んでいます。

私が生活をはじめた町は、こんな場所です。アメリカの大都市圏にある典型的な郊外、ベッドタウンです。住人の多くはマンハッタンや周辺の企業に勤めている家庭です。子育て世代が多く、大きな家でのんびりと過ごしているようです。一人住まいは少ないので、家や賃貸アパートは1人用が少ないです。学生はほとんどがホームステイか大きな部屋をシェアしていました。
徒歩での生活はかなり厳しいので、車を保有するしかないのですが、金銭的に厳しい人はバスが命綱です。このあたりは冬になるとマイナス20度になることもあるので、徒歩で長距離を歩くと生命の危機となります。バス通学の頃は、バスを待つのが辛かったです。車を所有してからは、辛いこともなくなり、郡内は車であれば30分程度でどこにでもいけるので便利でした。




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38. ボストン 就職セミナー 2/2 [就職活動]

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ボストン就職セミナー2日目。
初めての一人旅、シェラトンという高級ホテル、あまりなじみのないボストンという町、どれも私にはとても新鮮でした。就職活動という行為自体も初めてで緊張し、世界が変わったように感じました。

朝は人生初のルームサービスです。部屋にアメリカンブレックファーストを持って来てもらい、コーヒーを何倍も飲んで、まるでセレブ気分です。でもパック料金だったので、それほど高くはなかったです。

スーツに着替えセミナー会場に行くと来場者数が激減していました。1日目は会場に入るのにも一苦労だったのに、会場は静まり返り学生の数はとても少なかったのです。ブースの数は変わらず、各ブースの中には企業の人為担当者がいらっしゃいます。人気企業のブースにあった長い列もありません。
初日は、学生は誰でも参加できたので混み合っていたのですが、2日目は初日の面接を突破した学生のみが時間指定で呼ばれているのでした。
私は昨日の面接で来て欲しいと言われた4社を回りました。確かに時間が指定されていました。空いて入る時間は近くのカフェでコーヒーを飲み時間をつぶしました。

4社の中で一番熱心に私に就職をアプローチして来たのは日本でトップのケミカルメーカーでした。日本の市場の8割を掌握して入る大企業です。世界中から様々な化学物質を購入し日本の企業に提供するという仕事は、専門商社のようでやりがいのある仕事に思えました。そして人事担当の方の真摯な態度に感銘を受けました。こういう方々と仕事をご一緒するのもいいなあと思いました。
人事の方は、とりあえずよく考えて返事を欲しいと言ってくれました。決断を催促するわけでもなく数ヶ月のうちに決めて欲しいという感じでした。これはとてもありがたかったです。私も飛行機にタダで乗れるという軽い気持ちで来たので、急に会社を決めろと言われても困ったと思います。

他の3社も、私に興味を示してくれましたが、製薬会社や飲料メーカーで私には全く興味のない業種でしたので、当日お断りしました。

この日の夕方、私はボストンを経ちニューヨークに戻りました。
このセミナーで得たことはいくつもあります。
まず、日本企業は、大学を卒業する前に内定を出すことです。卒業してからだと既卒となってしまい新入社員として会社に入ることは難しくなるのです。そして転職はあまり盛んではなく、相変わらず終身雇用が中心であること、一般職と総合職という種類があることなどなど、摩訶不思議な日本のシステムを知ることができました。
次に、アメリカにはこんなにもたくさんの日本人留学生がいるということを知ったことです。私がいた州立大学には目的を見失った帰る場所がない無軌道な日本人留学生がたくさんいましたが、今回参加したセミナーに来ていた日本人留学生は、皆ちゃんとしていました。そして大学にも通っていて卒業間近であるようでした。
私と同様に大学をしっかりと卒業しようと頑張っていて、さらに日本企業に就職しようと考えている人がこれほどいるとは思ってもみませんでした。
最後に日本企業がアメリカの大学を卒業する日本人を欲しがっているんだということもここで知りました。

大学卒業が近づいて来て、そろそろ今後の人生を考えていたタイミングでいただいた招待状。帰りの飛行機の中で私はいくつかの目標を立てました。
1)アメリカ留学前から思い描いてきた映画制作の仕事を探す。
2)父親との約束=卒業したら日本に戻る、を真剣に考えてみる。
3)留学前のように自分で就職活動というものを研究してみる。

実はNYUは、当時企業から人気があり、就職は特に活動しなくても企業の担当者が学校に引き抜きに来てくれていました。私のところにも複数社からオファーがありました。すでに年俸や条件なども提示されていたのです。
NYUのビジネススクールには日本人学生がほとんどいなかったので、アメリカ人と話しているうちに、どこかでこのままアメリカで就職してしまうつもりになっていました。グリーンカードも取れるし、そのうちアメリカの国籍も取得できるのだと思っていました。競争は激しいでしょうが、私にオファーをして来た企業は、私のビジネスの知識と日本語に精通していること、日本文化に精通していることを高く評価していました。おそらくアメリカ企業が日本進出する際のアメリカ側の責任者になることを望んでいたと思います。そうなると私に変わる人材はそう多くなく、ある程度は安定した、そして優雅な生活が送れるのではないかという考えもありました。

しかし、私の子供から目標、そして留学費用を捻出してくれた両親のことを考えると、やはり日本企業に入ることも悪くはないなと思えたのです。帰りの飛行機では、そんなことを考えていました。



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37. ボストン 就職セミナー 1/2 [就職活動]

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今回から2回は、時間を飛び越して就職活動のお話です。

なんとか正規留学を終了できそうな気配を感じていた時の今後の人生について考える転機となった出来事です・・・

 

学校から帰ると、自宅に大きな封筒が届いていました。そこには日本語で就職セミナーという文字がありました。

開けてみると、そこにはボストンで春に開かれる日本企業の就職相談会の招待状が入っていました。交通費を持つのでボストンまで来て欲しいという依頼です。丁度休みに重なっているので、行ってみようと思いました。

 

ボストンへは用意された航空券でラ・ガーディア空港からボストン空港へ向かうシャトル便に乗るところから始まりました。空港はラ・ガーディアのターミナルではなく、少し離れたシャトル・ターミナルでした。小さなプライベートジェット機に乗ってボストンに向かいます。空港からは地下鉄を乗り継いで、町の中心地に向かいました。たった2泊3日の旅なので荷物は大きくなく電車での移動も楽でした。宿泊は会場の近くのシェラトンホテルにしました。

 

当時、アメリカ全土の大学には数万人の日本人留学生がいました。その中で一部の日本人には招待状が届いたようです。優秀な生徒には交通費だけでなくホテル代なども支給されていたようです。多くの学生は、自力でボストンに来て参加していました。

 

私は、ひとりでの参加です。実は、自分の人生において初の一人旅でもありました。到着して部屋にチェック・インをすると町を散策しました。ボストンには車で何回か来ているので、だいたい位置関係を再確認し、明日行われる就職セミナーの場所を把握し、近くのカフェで食べ物を買い、自分の部屋で資料を読みながら軽い食事を済ませました。

 

翌朝、着慣れないスーツを着て、当時就職活動には必ず学生が持ち歩いていたプラスティック製の資料入れにレジメを複数枚入れ、会場に向かいました。

驚いたのは、かなりの人数の日本人学生がボストンに集まっていたことでした。こんなに沢山の日本人留学生が就職活動のためにボストンに集まっているとは思ってもみませんでした。皆が大学3年か4年生です。そして、セミナーというのは名ばかりで企業の面接会場でした。入口でレジストレーションを行い、大きなコンベンションセンターに入ると、100社近い日本企業がブースを構えていて、好きな企業の人事面接官と面接をするのです。これは事実上1次面接にあたります。面接スタイルは企業によって違っていて、複数の学生に対し面接官がひとりだったり、1対1の面接だったりしました。

 

私は、映画を作りたいという強い目的を持ってアメリカに来ました。このときもその思いは変わりありませんでした。そしてニューヨーク大学のビジネススクールで辛い勉強をしてきて、自分の力をだんだんと感じつつある頃でした。

しかし、集まっている企業は、重工業や製薬メーカー、旅行関係などで私の志望業種はありませんでした。

 

私が考えたのは、とりあえず面接を沢山受け、日本の企業がどんな人間を欲しがっているのかをリサーチすること、そして面接に慣れることを主目的にしようというものでした。

ボストンまで来て人材を確保しようという各社は、それなりに気合いが入っているはずです。そこでいろいろと聞いてみようと気軽に考えて参加することにしました。

 

数社ブースを周り面接を受けて感じたのは、自分の望んでいることが面接官に直ぐわかってしまうことでした。興味のない業種に関しては、何故この会社に入りたいのかという熱意が伝わりません。興味がないのだからあたりまえです。殆どの企業はここで終了です。

いくつかの会社は、興味がないにも関わらず私に対し積極的なアプローチをしてきました。当時アメリカではTOP10に入る大学に在籍していたこと、日本語と英語が堪能なこと、人柄が悪くはなかったことなどがその原因だと思います。

結局夕方の5時頃まで10社程度の面接を終え、翌日来て欲しいと言われた企業は4社でした。どこも旧財閥系の企業でした。

 

ブースを回っているとき、混んでいる企業の場合は列が出来ます。そこで前後にいる人と話をすることになります。私は日本語を話せるのが楽しくいろいろな人に話しかけてみました。普段英語で生活しているので日本語会話がとても嬉しかったです。わざと長い列に並んで話していました。その中のひとりが、とても気が合う人でした。アメリカ人の彼がシラキュースから車で送ってくれて、今日一日中ホテルで待ってくれているという女性で、彼女はSUNYに通っていました。私もかつてSUNYにいたので、話があったのです。

彼女によると、交通費が支給されたのは上位数校の大学の生徒だけだということを知りました。そして、彼女が話した学生のほとんどは明日の面接に呼ばれず、今日の夜ボストンを離れると言うことを聞きました。私のように何社からも声がかかった学生に初めて会ったと言われ驚きました。

 

彼女とは、会場近くで簡単な夕食をとりました。そしてアメリカ人の彼がボロボロの車で迎えに来たので、そこで分かれました。彼女とはその後も就職活動に関し連絡を取り合いました。

 

翌日の面接は次回お伝えします。

 

(2017.1.10 Rev.)

 


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36. 留学予備校 3/3 [留学の準備]

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河合塾には、毎日通いました。TOEFLは毎月のように受験しましたがなかなかスコアが上がりません。ただ受ける度に少しずつスコアは上がっていきました。一応英語は地道に勉強していたので地味に成果は出ていたのです。ただ目標のスコアに達するのはまだ時間がかかるようでした。

英語の授業以外に受けたのは、大学に入ってからのノートの取り方やどのようにして授業についていくのかなど実践的なアドバイスです。実はおおくの留学希望生が大学に入ることを最大の目的にしてしまい、入学後に辞めてしまうことがおおいそうです。そのため、きちんと授業についていって卒業を目指す学生を作ることを河合塾は考えているようでした。その他にも米国の歴史や日本との生活習慣の違いなども丁寧に教えてくれました。

当時の私は、英語の授業は苦痛でしたが、米国生活に関する授業はとても楽しかったです。英語の授業は将来が不安になるばかりでした。しかし生活に関する話は将来に少しだけ明かりが差していました。自分は、アメリカという見知らぬ土地で夢のような生活を送れるのかもしれない、そう思うと前向きに勉強が出来ました。

河合塾に入り半年もすると、友達のグループができてきます。私は真ん中のクラスの20人の中で6〜7人と仲良くなりました。でもそのうち数人は、学費と遊ぶ金を稼ぐため予備校を休んでバイトをしていました。なので毎日クラスに参加するわけではありませんでした。彼らのおおくは地方出身者だったので、狛江にある河合塾の寮に住んでいました。私が予備校で仲良くしていたグループの内殆どはこの寮に住んでいました。
私は時々その寮に遊びに行きました。そこには不思議な世界が広がっていたのです。たいして広くない部屋に2段ベッドがあり、1部屋2人が住んでいました。隣にはまた別の2人、全部で10部屋くらいあったので20人(生徒の約半分)がこの寮に住んでいたのです。住人は部屋を行ったり来たりして仲良くしていました。皆はそこで将来の夢を語りあい、グループごとに一緒にアメリカに行こうと話し合っていたのです。寮にいた学生のおおくは、結局ロサンゼルスに行くことにしました。できるだけ同じ大学に行けば、アメリカでも一緒の寮に入り今の関係が続くというわけです。私はどうしてもこの仲間意識が理解できませんでした。自分の人生をかけた夢に向けアメリカに行くのに、予備校の仲間と同じ大学に入るのが目標になっているからです。私も誘われましたが、ドルトンスクールの先生の言う通り、ひとりニューヨークを目指すことにしました。きっとこのメンバーと一緒にLAに行ったら楽しいけれど、アメリカに行く意義を見失ってしまうと思ったのでした。寮にいる友達とは適度な関係を保ちながら、どちらかというと1人で留学に向けた準備を進めました。

高校が一緒だった中川は、相変わらず一緒に通学していました。帰りは一緒だったり別々でした。彼はとても気の良い人間で付き合いやすかったです。でも、留学の動機が私とは違っていたようです。彼は塾でカウンセリングを受けるうちにホテル・マネージメントの仕事に就きたいと思うようになりました。そしてカウンセラーからフロリダにあるホテル・マネージメントの学科のある大学を紹介されました。彼はその大学にアプライすることになります。

デザイナーを目指していたアキラは、ロサンゼルスにあるデザイン学校を受験することになりました。彼は非常に真面目でバイトをしながらちゃんと授業にも出席し、目的意識を持ちながら頑張っていました。

九州出身のリュウは、寮にいながら異彩を放っていました。アメリカでアメリカン・ドリームを実現するため「でっかいビジネスを立ち上げたい!」というのが口癖でした。彼はオハイオ州にあるビジネス専門大学に入るべくオハイオ州にあるランクの低い大学に入ることにしたようです。そこからオハイオ州立大学のビジネススクールにステップアップする方法を選んだのでした。彼も仲間とつるんでLAに行くのは間違っていると思っていました。

リュウと一緒の部屋にいた映画監督を目指す山田は、ロサンゼルスのコミュニティ・カレッジを目指しました。そこで頑張ってUSCに転入することが目的です。でも彼には重大な問題があったのです。彼は酒乱でした。普段はとてもおとなしく地味に頑張っている青年でしたが、寮で酒を飲むと手が付けられないくらい暴れるのでした。それは日を追うごとに酷くなり、寮だけでなく街中で酒を飲んでも見知らぬ他人に絡み暴れるのでした。そのうち渋谷の安い飲み屋で喧嘩騒ぎを起こすようになり、寮に住んでいる仲間は彼を監視して守るようになっていきました。果たしてそんな酒乱の男がアメリカの大学に入学しうまくやっていけるのか、皆が不安になりました。

寮では、さらに面白い面々が暮らしていました。一番下のクラスにいた太った男河本と、同じ部屋にいたお金持ちのご子息の藤井は、二人揃ってロサンゼルスを目指していました。河本はロバート・デ・ニーロに憧れていてハリウッド俳優を目指していました。藤井は、裕福でいつもブランド品を身に付けていました。東京に家があるのに寮に住んでいる変わったタイプの男でした。実は彼の家庭環境は複雑で、家にいることができないのでした。日本に居場所がなくてアメリカに行くタイプのちょっと悲しいバックグラウンドを持っていたのです。彼はとにかく東京から逃げたかったのではないでしょうか。特に勉強もせず、フラフラとしていて授業にもあまり出席せずバイトをするわけでもありませんでした。昼間から寮で本を読んだりして、時々皆に酒を奢っていました。

品川から通ってきていたタカは、私と同様ある距離を取りながら私と同じグループにいましたが、暫くすると彼なりの道を見いだしてきました。やはり河合塾の仲間と一緒に留学を共にするのは良くない、できるだけ日本人のいない大学に入学しようと考えたのです。そこで選んだのがアメリカの陸の孤島、カンザス州の田舎にある大学に進学するのです。そこまでいけば日本人はいないでしょう。彼はそこで英語を身に付け4年生大学を目指すことにしました。

こうして、50人の学生の内40人程度が、河合塾の留学カウンセラーと共に留学の目的を詳細に決めていきました。最終的な将来の仕事をイメージしながらどうアプローチして大学卒業という高いハードルを越えていくのか、これはひとりひとり違った道です。ですから河合塾のカウンセラー達は、何時間も時間をかけて学生ひとりひとりの方法論を一緒に考えてくれるのでした。

私の担当だった楠先生というカウンセラーは、とても素晴らしい方でした。河合塾に入ってよかったと思えることのひとつは、楠先生との出会いです。当時は優しい人というイメージでしたが、私の進路について常に親身に考えてくれました。
私の場合、まずニューヨーク州立大学に入学し、そこで良い成績を取る。そして校長先生の推薦状を貰い、最終目標であるニューヨーク大学に入学するというアプローチです。でもそう上手く行くわけもないので、一応いくつかの大学にアプライする準備を進めました。

そんな中、東京原宿で留学フェアなる催しがありました。そのフェアではアメリカから大学の留学生課の方が来日して大学をアピールするというのです。早速行ってみると、アメリカの20の大学からアメリカ人スタッフがやってきてブースを構えていました。彼らは大学の紹介されたガイドブックを配り、個別に話をしてくれるのです。大学の魅力、生活環境の説明、外国人受け入れの実績などを詳しく説明してくれ、願書をくれました。今考えると、これは体の良い勧誘です。大学運営のためにお金持ち日本人学生を誘致したいのです。当時の私はそんなことも知らずいくつかの大学の願書を受け取りカウンセラーに相談しました。

後日、楠先生からは、その中から1つだけ実際に願書を提出してみようと提案されたのです。きっとカウンセラーからすれば、まずアプライという面倒な段取りを経験させたかったのでしょう。私は一生懸命アプリケーション・フォームに記入し、高校から英語の成績証明書を貰い、エッセイを書き、その他の資料一式を揃アメリカに送りました。この経験はしておいてよかったです。後に何通もこの書類を制作することになるのですが、まずは気軽に始められたのは大きな収穫でした。

河合塾での日々の授業をこなしつつ、留学に向けた具体的なプロセスが始まりました。アメリカ入学はとても簡単にできると思っていたのですが、成功をつかむためにはかなり地道な勉強や事前のリサーチ、出願の準備など膨大な作業があることを知ることができました。
最近は、これら煩雑な作業を一手に引き受ける留学代理店がありますが、こう言う作業は、サポートされても自分で行うべきです。アメリカ人は皆自分でやっています。この作業を行うことで自分の行く大学を知り目標を明確化できるのです。

大学を卒業し、高校時代の夢を実現化できた今でこそ、あのプロセスは必要だったなあと強く思います。

(2017.1.10 Rev.)



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35. 留学予備校 2/3 [留学の準備]

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河合塾の留学予備校に入塾し、すぐに英語の学力試験がありました。学力により3クラス振り分けられると聞いていました。1番優秀なクラスは生徒が10人の少数精鋭クラスでした。2番目のクラスは20人のクラス、そして英語ができない人が入る3番目のクラスが20人です。高校時代、一番苦手な教科が英語だった私は2番目のクラス、高校の同級生・中川は3番目のクラスに入りました。

総勢50人の予備校はこうして始まりました。初日はオリエンテーションです。生徒全員が自己紹介をしていきます。集まっている生徒はとてもバラエティに富んでいました。北は北海道、南は熊本から来ていました。地方からの生徒は河合塾が用意した学生寮で生活しているようです。東京の自宅から通う生徒は30人程でしたので20名は地方からの参加ということになります。地方からの生徒はまだ緊張しているようでした。男女比は半々でした。
生徒は、全員がアメリカの大学に進学を希望していました。ヨーロッパやオーストラリアに行こうとしている人はいません。ただ、人それぞれいろいろなバックボーンを持っていて興味深かったです。

校舎は小田急線下北沢の近くです。月曜から土曜日まで毎日朝から夕方まで授業がありました。いわゆる大学受験予備校と違い、毎日びっしりとカリキュラムが組まれていました。
予備校には電車で約1時間かけ通いました。毎朝8時ちょっと前に駅に集合し、高校時代の友人・中川と一緒に通学します。西武新宿線は当時も壮絶なラッシュ時間帯で、郊外から東京に通う企業マン達に揉まれながら電車に乗ることになります。このラッシュがとても辛かったのを覚えています。

入塾2日目から授業が始まりました。
生徒の英語レベルは非常に幅広く、1番優秀なクラスに入った生徒はほとんどが帰国子女でした。子供の頃海外で生活経験があり、親の仕事の関係で日本に戻って来たけれど大学はアメリカに戻りたいという人たちです。帰国子女でない生徒も優秀で、親類がほとんど医者だで何が何でもエール大学医学部に入りたいという男性、家が農家でアメリカの田舎で最新の農業技術を身につけたいと予備校に入ってきた東北弁の抜けない男性などがいました。そんなメンバーのクラスは普通に英語が話せる人が多かったです。

私が入った2番目のクラスには、英語能力は日本の標準といった感じでした。高校卒業レベルの英語理解力はありました
。クラスメートは20人がいましたが、毎日予備校に通っていたのは15人くらいです。家の関係で留学を断念しなければならない人や、親元を離れて寮で暮らしている人は、東京という町で満足してしまい、アメリカへの夢を失ってしまった人などなど。数ヶ月で数人が消えていきました。
クラスで仲良くなったのはアキラです。彼は神奈川県の実家から通っていました。父親は大手電機メーカーの研究員です。アキラ自身はファッションデザイナーを目指していて、アメリカのデザイン学校でファッションの勉強をするのが夢でした。ほかには、熊本から出てきたリュウも仲良くなりました。彼はビジネスチャンスをつかみアメリカで大成功を狙うというなんだか大きな野望を持っていました。リュウは下北沢の寮に住んでいて、同室には同じ九州出身の山田がいました。彼はおとなしいのですが映画監督になる夢を持っていました。

3番目にクラスにおおかったのは、日本の大学に入れなかった学生です。親が大金持ちで、アメリカにでも行ってこいと言われた目標なき人々です。ハリウッドで俳優を目指すという人、ロサンゼルスで数年暮らせば良いという人など、なんとなくやる気がない感じのするクラスでした。中川は、そんな金持ち達と仲良くなり、夜な夜な新宿や渋谷で夜遊びするようになっていきました。

それぞれ個性の強いティーンエイジャーが日本全国から集まっていました。その中で私は東京の高校を卒業し、アメリカの大学を目指すとても地味な学生でした。クラスも真ん中だし、個性も強くないし、見た目も普通。逆にこの普通さが目立つくらい、予備校に集まった学生は変わっていました。

予備校、正式名称じゃ河合塾グリーンアカデミー。
午前中は、TOEFLの成績向上を目指す勉強を中心に行います。アメリカの大学に入るためには当時550点以上のスコアが必要でした。この数字を得るための勉強です。そして、アメリカの大学に入った後、きちんと授業に着いていくための勉強もしました。アメリカの大学の仕組みやノートの取り方など、実際に入学後に困らないための勉強です。これは後でとても役に立ちました。
午後は、カウンセリングです。このカウンセリングがとても有意義でした。生徒に海外留学経験のあるカウンセラーがついてOne on Oneで将来のビジョンを描き、それを達成するためのロードマップを考えていくのです。自分の人生の目標は?そのために選ぶ大学は?行きたい大学に入るためのアプローチは?時間をかけこれら目的を整理していきます。

私の場合、人生の目標は映画を作るという仕事に従事したい。行きたい大学は、ジョージ・ルーカスが卒業したUSCかUCLA。そのためには一生懸命英語を勉強する。といった話をしたのを覚えています。
しかし、アメリカの有名大学に入るのはそんなに甘くはないのです。簡単に入れるならもっと沢山の学生がトライしているはずです。50人の学生が行きたいと思っていた大学は、ほぼ全員が入れないことがわかりました。私も同様です。
まず、英語能力が規定値に達しません。そして高校時代の成績が要求値に達していないのです。アメリカの大学は、入学試験で合否を判定しません。高校時代の成績や日常生活の経歴、そしてTOEFLなどの公的な機関が行っている学力試験の数字を総合的に見て判定するのです。今更ですが、高校時代もっと良い成績をとっていればと後悔しました。そして、取り返しのつかないことに悩みました。

入学後1ヶ月が経ち、現実を突きつけられおおくの学生が落胆し、留学予備校に入ったことを後悔し始めたとき、河合塾は素晴らしいカウンセラーを招聘しました。ニューヨークにあるドルトンスクールの先生です。ドルトンスクールというのは、アメリカの富裕層の子供がお世話になる学校で、カウンセラーがなんとかして有名大学に子供が入れるよう動いてくれるのです。普通は、個人が払えるような金額ではないギャランティーを要求されますが、河合塾は、かなりの金額を出して先生を日本に呼んでくれ、我々学生のカウンセリングを行ってくれました。

私がドルトンスクールの先生との話に与えられたのは2時間です。そこで言われたことが私の留学成功の大きな鍵になりました。まず、私の希望と現状の資料を渡しました。すると、USCやUCLAなど西海岸の大学を目指すべきではないとはっきり言われました。西海岸には不良日本人が沢山いて私のような気の弱い学生は、事件に巻き込まれる可能性が高いこと、そして日本人と仲間になり卒業するのがほぼ不可能になることなど指摘されました。
そして、東海岸に行くことを勧められたのです。その頃、日本ではアート映画ブームが起きており、ジム・ジャームッシュやスパイク・リーなどが注目されていました。彼らが卒業しているNYUにも興味があったので学校名を口に出すと、私の学力では入学が難しいと指摘されました。
先生は、画期的な提案をしてくれました。「まず、ニューヨーク州立大学に入りなさい。州立大学ならばあなたの学力でも入学でき、授業にもついていけるはずだ」と。「そこでAを取り続け、校長先生から推薦状をもらえばNYUに転入できるはずだ」と言うのです。大学に2つも行くのは大変だなあと思っていると、費用についてもアドバイスしてくれました。NYUは、私立大学なので授業料がとても高いのです。よって授業料の安い州立大学で単位を稼げば、最終的には留学費用を圧縮できるという美味しいお話です。

多くのことを得ることのできた河合塾。しかしその中でも一番の収穫は、この2時間のカウンセリングでした。この2時間が、その後の私の人生を大きく変えたと言っても過言ではありません。そのくらい意義のあるアドバイスだったのです。

私は、ドルトンスクールのカウンセラーの指示に従い、勉強をしてニューヨーク州立大学に入るべくアプリケーション・フォームを取り寄せ準備を進めていきました。

他の生徒の反応は様々でした。きちんと目標を提示できなかった生徒は、当然はっきりとしたカウンセリングができなかったようです。中にはカウンセラーの意見を聞かない学生もいました。西海岸の大学に固執している人がおおかったです。いろいろな考え方があり、正解がある訳でもないのですが、その後の50人を見ると、このカウンセリングをどう受け入れるかで人生がおおきく左右されていくのでした。

それはこの後、おいおい書いていきます...

(2017.1.10 Rev.)


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34. 留学予備校 1/3 [留学の準備]

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ニューヨーク・シティの郊外にある州立大学に入学し1年が経ち生活が安定してきました。
さて、では私がどのようにアメリカの大学に入ることができたのか、時間を戻してお話しましょう。

小学校1年の時にテレビで「オズの魔法使い」を見ました。今振り返ると、この時映画の仕事に就きたいと思い立ったのだと思います。高校まで日本で過ごし漠然とアメリカの大学に入って勉強したいという願望を持っていたのですが、実際にどのようなプロセスを辿りアメリカの大学に入るのかは全く知りませんでした。当時私の周囲にはアメリカに行った人などおらず、当時はネットもなかったので十分な情報を入手することはできませんでした。

高校時代、友人たちと通っていた予備校が河合塾でした。当時は高校の勉強を補う目的で池袋校に週数回通っていました。実は河合塾ではそれほど熱心に勉強していた訳ではありませんでした。東京郊外の高校が終わった後に、東京に出られるのが楽しかったのです。池袋という雑多な街の夜は、いるだけで田舎の少年には刺激的でした。そして私の通う高校は男子校だったので、東京のきれいな女子高生たちと教室を同じにするだけで行く意義があったのです。といっても、池袋で悪いことをする訳でもなく、女子高生とお友達になって喫茶店に行く訳でもないのでした。ただ、そのような都会の環境に自分がいることだけで満足していたのでした。

そんな河合塾の入り口にポスターが貼られていました。模擬試験があるという告知ポスターに並んでグリーンアカデミーというポスターがありました。Go for it !というコピーとともに留学コースと書いてあったのです。実は河合塾は留学を希望する学生たち向けに予備校を設けていたのでした。そこで、早速その留学コースの資料をもらいに事務所に行きました。一緒に池袋に遊びにいっていた高校の友達は、私の持っていた資料を見て不思議がっていました。それほど海外留学は自分たちにとって日常ではなかったのです。

後日、私は本屋さんで留学に関する雑誌を立ち読みし、いくつか興味のある本を購入しました。そしてアメリカ留学の進め方を理解しました。さらに本を購入し、実際に行きたい学校がどこなのかを調べ始めました。
そこには、高校生には夢のような世界が広がっていました。広いキャンパスの写真、アメリカ人学生と一緒に食事をする日本人学生、学校の設備、休日の過ごし方 etc ...
心はすっかり留学気分です。早速両親に留学したいという意思を伝えました。自分が行ったことのないアメリカの学校に息子を行かせるということを簡単に決める程、子供に寛容な両親はそういないでしょう。我が家も同じで、何回か話し合いをしました。両親はまずは日本の大学も視野に入れて勉強するように私を説得しました。きっと子供の気ままな発想だと思ったのでしょうし、実際に海外の大学に行かせるとなると、それなりに資金も必要だと感じたのではないでしょうか。
当時、私は本に魅了され、日本の大学に行くつもりはなくアメリカに行きたいという強い意志がありました。高校3年生の時は、毎日留学を思い描き、アメリカの地図を購入し、勝手に住んだ時のイメージなをしていました。そんな野望を持つ私が簡単に日本の大学受験に成功するはずもなく、日本の大学受験は失敗に終わります。超一流難関大学は不合格。あえて浪人の道を選びます。
高校を卒業後は、日本の大学受験に向けた予備校に通いつつ一人で留学の準備を進めました。そして両親を説得し、数ヶ月後、留学予備校に入っていいと言う了解を取り付けたのでした。
留学予備校に行って良いと親が決断するのに約半年かかっています。この間の時間は無駄になっています。日本の大学に入るための予備校の授業料も無駄になっています。でも両親はそれほど苦渋の決断だったのでしょう。自分の子供がアメリカという見知らぬ土地で大学に入り、しかも卒業することはとても難しいことだと気づいていたに違いありません。それでもアメリカに行くと言い張る息子の意思を尊重したのでしょう。

父親は、いくつかの約束を要求しました。まず、ちゃんとアメリカの大学を卒業すること。そして卒業後は日本に戻ってくること。
私は約束を守ることを誓い、河合塾の留学予備校の説明会に参加しました。

説明会によると、これがなかなか大変だということがわかりました。そんなに簡単に有名大学に入れないこと、卒業は相当厳しいこと、金銭的にも結構かかることなどが説明されました。しかし、もう引き返す訳にはいきません。私は入塾願書を提出し、正式に河合塾留学予備校に入ることにしました。

この私の行動を見て、高校時代の友達が急に自分も留学すると言い始めました。中川という友人は、高校ではクラスが一緒になったとこはありませんでしたが通学が一緒で、予備校も一緒でした。通学や池袋に行く時は電車が一緒になり、なんとなく話があったので、時々遊んでいたのですが、それほど仲が言い訳ではありませんでした。そんな中川は、結局一緒に留学予備校に入ってしまいました。

(2017.1.10 Rev.)

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33. 一時帰国 [ニューヨーク州立大学]

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ニューヨークに到着してから1年を過ごし、来た頃と同じ冬になりました。
予想していたよりも遥かに美しい春、日差しの強い夏、紅葉の深い秋を経験し、ニューヨークの自然の素晴らしさを知ることが出来ました。そして、アメリカ生活も来た当初は大変でしたが、1年経過すると安定しニューヨーク州立大学の授業もなんとかついて行けるようになりました。
そして、住居は紆余曲折ありながら、一人暮らしをはじめ、車も購入したので、とても楽しいニューヨーク留学生活となってきたのです。

ここまで辿り着けば、とりあえず留学はなんとかなりそうだと思えました。あとは、がんばって勉強して早く有名大学にトランスファーすることです。夏休みは、半分を授業に割り当て、予定の単位を取得できていたので、冬は休みをとって日本に一時帰国してみようかと思いました。

両親に提案したところ、了承を得たので早速チケットを入手しました。アメリカでは帰国便のチケットを日本よりも安く入手できる方法がありました。日本人向けテレビでは、さかんに帰国便のCMを放送していました。そこで、HISニューヨークという旅行代理店にお願いしてチケットを格安で購入しました。HISは、その後日本に進出してメジャーになった旅行代理店です。価格は1000ドル程度でした。航空会社はJALです。来るときは高くて購入できなかった日系航空会社です。これは嬉しかったです。

12月、3回目のセメスターを無事終了し成績を確認すると、直ぐ準備を始めました。来たときはスーツケース一個だったのですが、いろいろと買い物をして荷物が増えたことを実感しました。

12月20日。空港までは自分の車で向かい、車は父の会社のニューヨーク支社の方の家において貰うことになりました。空港では、JALのカウンターに向かいます。
ニューヨークに向かったときは、成田空港で出国手続きをしたときから海外に出てしまったという寂しさがありました。JFKに到着した時はとても寒く、遠くに来てしまったなあと思いました。
帰国便はどんな感じかというと、不思議なことに帰りのJALのエコノミーカウンターで日本人スタッフに対応された時、その瞬間から日本を感じました。まだニューヨークなのに日本にいるような心地よさがそこにはありました。
スーツケースを預け、出国ゲートを通りゲートへ向かいます。ここのフードコートには日本食のレストランまであります。周りは日本人観光客がたくさんいて日本語が飛び交っています。ニューヨークにもYaohan以外にこんなに日本を感じる場所があるんだなあと驚いてしまいました。
JALの機内は「和」のおもてなしです。当時はビジネスクラスに寿司カウンターがあり、サービスの凄さに驚きました。私はエコノミークラスでしたが十分に贅沢な雰囲気を満喫しました。

成田空港には高校時代の友人が買ったばかりの車(86)で迎えに来てくれていました。とても嬉しかったです。そして埼玉県にある自宅まで直行です。車に乗る前にしたことは、缶コーヒーを購入です。アメリカには缶入り飲料の文化がないので、あの日本独特の暖かい缶コーヒーを飲みたかったのです。今ではまずくて絶対に購入しない缶コーヒーですが、当時はあの味も日本を感じる重要アイテムだったのです。
車の中では、1年間アメリカで体験した様々なことを話しました。友達はよく理解できていないようでした。日本の大学に入っていれば苦労することのなかったはずなのに何でわざわざ辛い思いをしているんだろうと彼は思っていたようです。逆に日本の大学生活の殆どはバイトで、バイトで知り合った友人の話をされ驚きました。勉強は殆どしないようで、バイトでお金を稼いで遊ぶのが日本の大学生の標準的な生活なんだと聞かされました。そういう社会勉強ができるのは羨ましいですし、それでも大学を4年で卒業できる日本のシステムが不思議でもありました。日本を出てたった1年でこんなにも異なる環境で過ごすことになった高校の同級生との距離感を感じることになったのにも、ある思いがありました。

実家では、母親が豪華な食事を用意して待っていてくれました。いつも暖かく迎え入れてくれる家族のありがたさをこのとき初めて感じました。いままで一緒に住んでいるとこの暖かさは普通のことであまり気にしませんでしたが、1年間アメリカで生活を経験してきた私には、家族が輝いて見えました。

夜は、遅くまで1年間の話をして熟睡しました。

ニューヨークへ戻るのは1月20日です。3週間日本に滞在し年越しもできるのです。
外は寒いですが、家族、友人ととても暖かい時間を過ごすことができました。
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32. 3rd セメスター 後半 [ニューヨーク州立大学]

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関田が家に来てから、楽しいこともありましたが困った事態となっていきました。

関田は、ニューヨークに来てとても落ち着いてしまいました。前の大学でよほど辛い思いをしたのでしょう。
彼は私の家に居候状態です。大学が決まるまでは特にすることもなく、私よりも家にいました。

困ったことは、1)英語能力が落ちる。2)勉強時間がとれないことでした。
1)英語能力
やはり同居人が日本人だと、日本語を話してしまい、1年かけて苦労して覚えた英語力がどんどん落ちていきました。これは授業に出席するだけで分かるほどの落ち込みです。ヒアリング能力までもが落ち始めていったのです。
2)勉強時間
以前、数人と同居したとき感じたように、結局同居人がいると勉強時間が減っていくのでした。これも困りました。なるべく授業が終わったら大学の図書館で勉強するようにしましたが、夜は家に帰ります。家ではなかなか勉強できません。朝、早起きして図書館に行ったりしましたが、絶対的な勉強時間が減っていくのは明らかでした。

そこで、関田には申し訳ないのですが、引っ越しを促しました。とにかく一緒に家を探すのです。彼は腰が重く、なかなか行動を起こしません。後で考えると費用の問題があったようです。勢いで大学を辞めたのですが、引っ越し費用がなかったのです。私の家に居候している限りはお金がかかりません。それで3ヶ月も居座ってしまったのではないでしょうか。

結局、彼は私と同じ大学にトランスファーし、大学近くの家庭にホームステイすることになりました。ホームステイと言っても、同じ屋根の下に住むのではなく、家の庭にある大きな小屋の2階に住むのです。1階は車庫です。ですから、適度にプライベートが保たれました。

関田が引っ越していったあとは、やっと元の生活に戻れました。といっても、予備校時代の友人が同じ大学にいるのです。今までのように日本人コミュニティと関わりを持たないで頑張ってきた環境とは明らかに異なります。
今後は、関田とどうしてもコンタクトをとり続けることになるのです。そして、日本語を話せる友人が近くにいるのは、それなりに楽しいのです。
この矛盾する環境で、自分はうまく留学を続け、無事に卒業できるのか不安になってきました。

2017.01.11 Rev.


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31. 3rd セメスター 前半 [ニューヨーク州立大学]

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一人暮らしにも慣れ、車の運転も楽しくなり、夏休みを満喫し、アメリカ生活はすっかり楽しくなりました。
何故か言葉も使えるようになっていました。学校で勉強を頑張り、引っ越しなど街の人々とも交流していくうちに自然と英語が話せるようになったようです。

私の住んでいたニューヨーク州ロックランド郡では、街の木々が黄色く色づきはじめました。どうやらこのあたりは紅葉があるようです。風がちょっと冷たく感じる頃、秋セメスターが始まりました。学期前の英語学力試験をパスし、既に語学学校の生徒でもなくなっていたので、レギュラーのクラスを申し込みました。半年かかりましたが、ここからようやくアメリカの正規大学生として学校に認められたのです。
3回目のセメスターともなると、授業には、普通についていけるようになりました。
インターナショナル・ビジネス、マーケティングなどのクラスを受講しましたが、英語がわかるようになるとそれほど授業は苦になりませんでした。そして宿題もきちんと提出し、ミッドタームも良い成績で終えることが出来ました。本当に不思議ですが、今までの2セメスターの苦労はなんだったんだと思うくらい普通に授業について行けるのでした。

そんな中、友人から1本の電話が入りました。日本の留学予備校でクラスが一緒だった関田からです。
関田は、私より数日遅く日本を出国しました。そしてサウス・カロライナにある大学に入学したはずです。彼からは、今通っている大学では自分がダメになるからニューヨークにトランスファー(転校)したいというような話を聞かされました。そして、直ぐにでもニューヨークの大学にトランスファーしたいので、暫く私の家に泊めてくれないかという相談でした。

私は、自分の生活がやっと安定して授業も楽しくなってきたことろなので、今関田と同居すると、英語能力が落ちてしまうのではないかという不安がありました。しかし、友人が困っているのに見捨てるわけにはいけません。快諾すると、数日後に関田は自分のワーゲン・ゴルフに荷物を積んで現れました。

彼は、学校で人間関係に問題があったようです。それも日本人同士。私は日本人と基本的に付き合わない方針を貫いていてよかったなあと思いました。米国に来て日本人同士で喧嘩したり啀み合ったりするのは、本当に馬鹿げていると思います。彼の場合は、学校しかない田舎町で閉塞感が漂い、ついつい日本人とつるんでしまったそうです。

彼の車に積んであるのは、彼の全財産ではないようで、残りの彼の荷物をピックアップするため一緒にサウス・カロライナの学校にある彼のドーム(学生寮)につきあうことになりました。秋のセメスターは祝日がけっこうあったので、それを利用した1泊2日の旅行です。

二人でゴルフに乗り込み、ニューヨークを出発。ノーフォークまでは、この前行ったワシントンの旅と同じ道を走りました。もう来ないと思った道を1ヶ月後に走るとは夢にも思いませんでした。そして、ノース・カロライナからサウス・カロライナに入ります。このあたりは、走っても走っても森が続きます。この奥に本当に街があるのだろうか、と思うくらい途中は何もありませんでした。
数時間森を走ると、そこにようやく街が見えてきました。街と言ってもそこにあるのは、ゴーストタウンのようなとても寂しい集落でした。ここは、大学の城下町です。住んでいるのは学校に通う学生と関係者。そして残りは老人です。子供や30代、40代の働き盛りの住人にであうことは殆どありませんでした。ここは、完全に孤立している街なのです。
学校を訪ねると、それなりに大きな学校でした。でも皆太っているのです。ここでの楽しみは「食事」だけです。毎日ダイナーやチャイニーズで食事をすることだけが彼らの生き甲斐なんだそうです。これには驚きました。日本人の留学生は30人くらいいるのですが、昼ご飯の話題は"夕飯何を食べるか"なのだそうです。といっても夕飯に行ける店はチャイニーズかマクドナルドだそうで、話はほぼ毎日同じ事の繰り返しだそうです。30人の日本人留学生にもいくつか派閥があり、喧嘩したり恋愛対象を変えたりして生活していると関田は説明してくれました。こうなると動物園の猿山状態です。人間の尊厳などなく生き物としての本能でただ生活しているだけのように見えてきました。
寮は恐ろしいほど汚く、ビックリしました。特にトイレは扉がなく、学生は、便器に座りながら隣の人と話をしているのです。シャワー室の床には、なにやら黒い人工芝のようなものが敷いてあります。よく見るとそれは人の髪の毛です。シャワーの最中にバリカンなどで髪の毛を刈る学生がいるようで、その髪の毛が蓄積され芝生のように床全面に置かれているのです。学生はシャワー用のサンダルを持っていて、サンダルでシャワー室に入りシャワーを浴びていました。
この環境を見て、私は関田に早くニューヨークにトランスファーすべきだと力説していました。
我々は、関田の荷物をワーゲンに積め、近くのモーテルに1泊し、ニューヨークに帰ってきました。

関田は、直ぐに家を探すと言いつつ、結局2ヶ月も私の家に居候していました。

1989年秋
2017/01/11 Rev.

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30. ワシントンD.C.へ 2 [旅行]

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長い長い橋を渡ると、そこはNorfolkという街でした。結構大きな港町で海軍の基地があるようでした。
私は、この辺りで一泊しようと思い、高速道路沿いの街に降り立ちました。
そして、洒落た感じのモーテルを見つけました。この頃はホテルを予約するという技をしらなかったので、適当に決めたのです。日が暮れかかっていたのでここが今日の限界です。
夜に車を走らせるのは、とても危険だと何人もの人に注意されていたのでタイミング的には良かったと思います。
ホテルでは、夜遊びに行かない方がよいと言われました。まだ人種偏見があるし、この辺りは南部なのので気をつけるに超したことはありません。早速、チェックインして食事をして早めに寝てしまいました。

翌日は、朝ホテルを出発。Baltimoreを通り、ワシントンD.C.に到着しました。なんと美しい街でしょう。私はストリップ近くのラマダホテルにチェックインし、早速観光をして回りました。
ジョージ・ワシントンが暗殺された劇場、FBI、ホワイトハウスなどを見て回りました。私が一番行きたかったのはスミソニアン博物館です。その中でも航空宇宙博物館が一番楽しみでした。いくつかのスミソニアンを見て回り、いよいよ航空宇宙博物館です。期待を裏切らない展示物に感激し、くだらないお土産まで購入し大満足の1日でした。

次の日もワシントン観光です。アーリントン国立墓地など郊外を見て回り、午後D.C.を出発しました。
帰路は、95号線を北に向かいます。ワシントンを出てしばらくすると夕方になったので、Wilimington近辺で一泊しました。この街は本当に何もないところで、インターチェンジを降りるとそこには数件のモーテルと数件のレストランがあるだけです。
地元のレストランに入るのは気が引けました。昔映画で、よそ者がバーに入ると地元衆が露骨に嫌な顔をする場面を見ていたからです。ということで、デニーズを発見したので入りました。店に入るとテーブルに通されます。席について待っていると、10分経っても20分経ってもメニューを持ってこないのです。これでは注文もできません。よく見るとこのレストランは2つの大きな部屋があり、我々のいないほうの部屋ではお客さんが沢山いて店員が働いているのがみえました。忙しいのかなあと思ってよく観察してみて愕然としました。我々のいる部屋は、有色人種ばかりなのです。そしてもうひとつの部屋は白人ばかり。だからサービスが悪いのです。私は、席を立ち混んでいる方の部屋に行きメニューがほしいと告げました。すると店員がメニューを持ってきたのです。オーダーにも時間がかかりそうだったので、店員を引き留め、直ぐに注文をすませました。1989年になってもまだ人種差別があるなんてとても驚かされました。そしてかなり待たされ注文した食事が出てきました。私はとても嫌な思いをしました。おそらく法律があるので、こちらから動けば彼らは渋々ですが動いてくれます。法に触れない範囲で差別をする程度なのでたいしたことではないのかもしれませんが、自分では絶対に人種差別はしないとこのとき決意しました。それ以降、私は一度も人種差別をしたことははりません。自分が差別する側の人には絶対になりたくありません。今後も私が死ぬまでこのポリシーは貫くつもりです。

旅の最終日は、一気にニューヨークまで走りました。フィラデルフィアを過ぎるとニュージャージーに入りとてもほっとしました。もう家はすぐ近くです。そしてあっという間に到着しました。

アメリカに来て、ここまで長期間旅行をしたことはありませんでした。とても疲れましたが観光もでき、人種差別にもあい、密度の高い旅行となりました。
若い自分にとって、とても刺激的だったので、今後も車でいろいろなところに行こうと思いました。



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