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36. 留学予備校 3/3 [留学の準備]

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河合塾には、毎日通いました。TOEFLは毎月のように受験しましたがなかなかスコアが上がりません。ただ受ける度に少しずつスコアは上がっていきました。一応英語は地道に勉強していたので地味に成果は出ていたのです。ただ目標のスコアに達するのはまだ時間がかかるようでした。

英語の授業以外に受けたのは、大学に入ってからのノートの取り方やどのようにして授業についていくのかなど実践的なアドバイスです。実はおおくの留学希望生が大学に入ることを最大の目的にしてしまい、入学後に辞めてしまうことがおおいそうです。そのため、きちんと授業についていって卒業を目指す学生を作ることを河合塾は考えているようでした。その他にも米国の歴史や日本との生活習慣の違いなども丁寧に教えてくれました。

当時の私は、英語の授業は苦痛でしたが、米国生活に関する授業はとても楽しかったです。英語の授業は将来が不安になるばかりでした。しかし生活に関する話は将来に少しだけ明かりが差していました。自分は、アメリカという見知らぬ土地で夢のような生活を送れるのかもしれない、そう思うと前向きに勉強が出来ました。

河合塾に入り半年もすると、友達のグループができてきます。私は真ん中のクラスの20人の中で6〜7人と仲良くなりました。でもそのうち数人は、学費と遊ぶ金を稼ぐため予備校を休んでバイトをしていました。なので毎日クラスに参加するわけではありませんでした。彼らのおおくは地方出身者だったので、狛江にある河合塾の寮に住んでいました。私が予備校で仲良くしていたグループの内殆どはこの寮に住んでいました。
私は時々その寮に遊びに行きました。そこには不思議な世界が広がっていたのです。たいして広くない部屋に2段ベッドがあり、1部屋2人が住んでいました。隣にはまた別の2人、全部で10部屋くらいあったので20人(生徒の約半分)がこの寮に住んでいたのです。住人は部屋を行ったり来たりして仲良くしていました。皆はそこで将来の夢を語りあい、グループごとに一緒にアメリカに行こうと話し合っていたのです。寮にいた学生のおおくは、結局ロサンゼルスに行くことにしました。できるだけ同じ大学に行けば、アメリカでも一緒の寮に入り今の関係が続くというわけです。私はどうしてもこの仲間意識が理解できませんでした。自分の人生をかけた夢に向けアメリカに行くのに、予備校の仲間と同じ大学に入るのが目標になっているからです。私も誘われましたが、ドルトンスクールの先生の言う通り、ひとりニューヨークを目指すことにしました。きっとこのメンバーと一緒にLAに行ったら楽しいけれど、アメリカに行く意義を見失ってしまうと思ったのでした。寮にいる友達とは適度な関係を保ちながら、どちらかというと1人で留学に向けた準備を進めました。

高校が一緒だった中川は、相変わらず一緒に通学していました。帰りは一緒だったり別々でした。彼はとても気の良い人間で付き合いやすかったです。でも、留学の動機が私とは違っていたようです。彼は塾でカウンセリングを受けるうちにホテル・マネージメントの仕事に就きたいと思うようになりました。そしてカウンセラーからフロリダにあるホテル・マネージメントの学科のある大学を紹介されました。彼はその大学にアプライすることになります。

デザイナーを目指していたアキラは、ロサンゼルスにあるデザイン学校を受験することになりました。彼は非常に真面目でバイトをしながらちゃんと授業にも出席し、目的意識を持ちながら頑張っていました。

九州出身のリュウは、寮にいながら異彩を放っていました。アメリカでアメリカン・ドリームを実現するため「でっかいビジネスを立ち上げたい!」というのが口癖でした。彼はオハイオ州にあるビジネス専門大学に入るべくオハイオ州にあるランクの低い大学に入ることにしたようです。そこからオハイオ州立大学のビジネススクールにステップアップする方法を選んだのでした。彼も仲間とつるんでLAに行くのは間違っていると思っていました。

リュウと一緒の部屋にいた映画監督を目指す山田は、ロサンゼルスのコミュニティ・カレッジを目指しました。そこで頑張ってUSCに転入することが目的です。でも彼には重大な問題があったのです。彼は酒乱でした。普段はとてもおとなしく地味に頑張っている青年でしたが、寮で酒を飲むと手が付けられないくらい暴れるのでした。それは日を追うごとに酷くなり、寮だけでなく街中で酒を飲んでも見知らぬ他人に絡み暴れるのでした。そのうち渋谷の安い飲み屋で喧嘩騒ぎを起こすようになり、寮に住んでいる仲間は彼を監視して守るようになっていきました。果たしてそんな酒乱の男がアメリカの大学に入学しうまくやっていけるのか、皆が不安になりました。

寮では、さらに面白い面々が暮らしていました。一番下のクラスにいた太った男河本と、同じ部屋にいたお金持ちのご子息の藤井は、二人揃ってロサンゼルスを目指していました。河本はロバート・デ・ニーロに憧れていてハリウッド俳優を目指していました。藤井は、裕福でいつもブランド品を身に付けていました。東京に家があるのに寮に住んでいる変わったタイプの男でした。実は彼の家庭環境は複雑で、家にいることができないのでした。日本に居場所がなくてアメリカに行くタイプのちょっと悲しいバックグラウンドを持っていたのです。彼はとにかく東京から逃げたかったのではないでしょうか。特に勉強もせず、フラフラとしていて授業にもあまり出席せずバイトをするわけでもありませんでした。昼間から寮で本を読んだりして、時々皆に酒を奢っていました。

品川から通ってきていたタカは、私と同様ある距離を取りながら私と同じグループにいましたが、暫くすると彼なりの道を見いだしてきました。やはり河合塾の仲間と一緒に留学を共にするのは良くない、できるだけ日本人のいない大学に入学しようと考えたのです。そこで選んだのがアメリカの陸の孤島、カンザス州の田舎にある大学に進学するのです。そこまでいけば日本人はいないでしょう。彼はそこで英語を身に付け4年生大学を目指すことにしました。

こうして、50人の学生の内40人程度が、河合塾の留学カウンセラーと共に留学の目的を詳細に決めていきました。最終的な将来の仕事をイメージしながらどうアプローチして大学卒業という高いハードルを越えていくのか、これはひとりひとり違った道です。ですから河合塾のカウンセラー達は、何時間も時間をかけて学生ひとりひとりの方法論を一緒に考えてくれるのでした。

私の担当だった楠先生というカウンセラーは、とても素晴らしい方でした。河合塾に入ってよかったと思えることのひとつは、楠先生との出会いです。当時は優しい人というイメージでしたが、私の進路について常に親身に考えてくれました。
私の場合、まずニューヨーク州立大学に入学し、そこで良い成績を取る。そして校長先生の推薦状を貰い、最終目標であるニューヨーク大学に入学するというアプローチです。でもそう上手く行くわけもないので、一応いくつかの大学にアプライする準備を進めました。

そんな中、東京原宿で留学フェアなる催しがありました。そのフェアではアメリカから大学の留学生課の方が来日して大学をアピールするというのです。早速行ってみると、アメリカの20の大学からアメリカ人スタッフがやってきてブースを構えていました。彼らは大学の紹介されたガイドブックを配り、個別に話をしてくれるのです。大学の魅力、生活環境の説明、外国人受け入れの実績などを詳しく説明してくれ、願書をくれました。今考えると、これは体の良い勧誘です。大学運営のためにお金持ち日本人学生を誘致したいのです。当時の私はそんなことも知らずいくつかの大学の願書を受け取りカウンセラーに相談しました。

後日、楠先生からは、その中から1つだけ実際に願書を提出してみようと提案されたのです。きっとカウンセラーからすれば、まずアプライという面倒な段取りを経験させたかったのでしょう。私は一生懸命アプリケーション・フォームに記入し、高校から英語の成績証明書を貰い、エッセイを書き、その他の資料一式を揃アメリカに送りました。この経験はしておいてよかったです。後に何通もこの書類を制作することになるのですが、まずは気軽に始められたのは大きな収穫でした。

河合塾での日々の授業をこなしつつ、留学に向けた具体的なプロセスが始まりました。アメリカ入学はとても簡単にできると思っていたのですが、成功をつかむためにはかなり地道な勉強や事前のリサーチ、出願の準備など膨大な作業があることを知ることができました。
最近は、これら煩雑な作業を一手に引き受ける留学代理店がありますが、こう言う作業は、サポートされても自分で行うべきです。アメリカ人は皆自分でやっています。この作業を行うことで自分の行く大学を知り目標を明確化できるのです。

大学を卒業し、高校時代の夢を実現化できた今でこそ、あのプロセスは必要だったなあと強く思います。

(2017.1.10 Rev.)



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35. 留学予備校 2/3 [留学の準備]

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河合塾の留学予備校に入塾し、すぐに英語の学力試験がありました。学力により3クラス振り分けられると聞いていました。1番優秀なクラスは生徒が10人の少数精鋭クラスでした。2番目のクラスは20人のクラス、そして英語ができない人が入る3番目のクラスが20人です。高校時代、一番苦手な教科が英語だった私は2番目のクラス、高校の同級生・中川は3番目のクラスに入りました。

総勢50人の予備校はこうして始まりました。初日はオリエンテーションです。生徒全員が自己紹介をしていきます。集まっている生徒はとてもバラエティに富んでいました。北は北海道、南は熊本から来ていました。地方からの生徒は河合塾が用意した学生寮で生活しているようです。東京の自宅から通う生徒は30人程でしたので20名は地方からの参加ということになります。地方からの生徒はまだ緊張しているようでした。男女比は半々でした。
生徒は、全員がアメリカの大学に進学を希望していました。ヨーロッパやオーストラリアに行こうとしている人はいません。ただ、人それぞれいろいろなバックボーンを持っていて興味深かったです。

校舎は小田急線下北沢の近くです。月曜から土曜日まで毎日朝から夕方まで授業がありました。いわゆる大学受験予備校と違い、毎日びっしりとカリキュラムが組まれていました。
予備校には電車で約1時間かけ通いました。毎朝8時ちょっと前に駅に集合し、高校時代の友人・中川と一緒に通学します。西武新宿線は当時も壮絶なラッシュ時間帯で、郊外から東京に通う企業マン達に揉まれながら電車に乗ることになります。このラッシュがとても辛かったのを覚えています。

入塾2日目から授業が始まりました。
生徒の英語レベルは非常に幅広く、1番優秀なクラスに入った生徒はほとんどが帰国子女でした。子供の頃海外で生活経験があり、親の仕事の関係で日本に戻って来たけれど大学はアメリカに戻りたいという人たちです。帰国子女でない生徒も優秀で、親類がほとんど医者だで何が何でもエール大学医学部に入りたいという男性、家が農家でアメリカの田舎で最新の農業技術を身につけたいと予備校に入ってきた東北弁の抜けない男性などがいました。そんなメンバーのクラスは普通に英語が話せる人が多かったです。

私が入った2番目のクラスには、英語能力は日本の標準といった感じでした。高校卒業レベルの英語理解力はありました
。クラスメートは20人がいましたが、毎日予備校に通っていたのは15人くらいです。家の関係で留学を断念しなければならない人や、親元を離れて寮で暮らしている人は、東京という町で満足してしまい、アメリカへの夢を失ってしまった人などなど。数ヶ月で数人が消えていきました。
クラスで仲良くなったのはアキラです。彼は神奈川県の実家から通っていました。父親は大手電機メーカーの研究員です。アキラ自身はファッションデザイナーを目指していて、アメリカのデザイン学校でファッションの勉強をするのが夢でした。ほかには、熊本から出てきたリュウも仲良くなりました。彼はビジネスチャンスをつかみアメリカで大成功を狙うというなんだか大きな野望を持っていました。リュウは下北沢の寮に住んでいて、同室には同じ九州出身の山田がいました。彼はおとなしいのですが映画監督になる夢を持っていました。

3番目にクラスにおおかったのは、日本の大学に入れなかった学生です。親が大金持ちで、アメリカにでも行ってこいと言われた目標なき人々です。ハリウッドで俳優を目指すという人、ロサンゼルスで数年暮らせば良いという人など、なんとなくやる気がない感じのするクラスでした。中川は、そんな金持ち達と仲良くなり、夜な夜な新宿や渋谷で夜遊びするようになっていきました。

それぞれ個性の強いティーンエイジャーが日本全国から集まっていました。その中で私は東京の高校を卒業し、アメリカの大学を目指すとても地味な学生でした。クラスも真ん中だし、個性も強くないし、見た目も普通。逆にこの普通さが目立つくらい、予備校に集まった学生は変わっていました。

予備校、正式名称じゃ河合塾グリーンアカデミー。
午前中は、TOEFLの成績向上を目指す勉強を中心に行います。アメリカの大学に入るためには当時550点以上のスコアが必要でした。この数字を得るための勉強です。そして、アメリカの大学に入った後、きちんと授業に着いていくための勉強もしました。アメリカの大学の仕組みやノートの取り方など、実際に入学後に困らないための勉強です。これは後でとても役に立ちました。
午後は、カウンセリングです。このカウンセリングがとても有意義でした。生徒に海外留学経験のあるカウンセラーがついてOne on Oneで将来のビジョンを描き、それを達成するためのロードマップを考えていくのです。自分の人生の目標は?そのために選ぶ大学は?行きたい大学に入るためのアプローチは?時間をかけこれら目的を整理していきます。

私の場合、人生の目標は映画を作るという仕事に従事したい。行きたい大学は、ジョージ・ルーカスが卒業したUSCかUCLA。そのためには一生懸命英語を勉強する。といった話をしたのを覚えています。
しかし、アメリカの有名大学に入るのはそんなに甘くはないのです。簡単に入れるならもっと沢山の学生がトライしているはずです。50人の学生が行きたいと思っていた大学は、ほぼ全員が入れないことがわかりました。私も同様です。
まず、英語能力が規定値に達しません。そして高校時代の成績が要求値に達していないのです。アメリカの大学は、入学試験で合否を判定しません。高校時代の成績や日常生活の経歴、そしてTOEFLなどの公的な機関が行っている学力試験の数字を総合的に見て判定するのです。今更ですが、高校時代もっと良い成績をとっていればと後悔しました。そして、取り返しのつかないことに悩みました。

入学後1ヶ月が経ち、現実を突きつけられおおくの学生が落胆し、留学予備校に入ったことを後悔し始めたとき、河合塾は素晴らしいカウンセラーを招聘しました。ニューヨークにあるドルトンスクールの先生です。ドルトンスクールというのは、アメリカの富裕層の子供がお世話になる学校で、カウンセラーがなんとかして有名大学に子供が入れるよう動いてくれるのです。普通は、個人が払えるような金額ではないギャランティーを要求されますが、河合塾は、かなりの金額を出して先生を日本に呼んでくれ、我々学生のカウンセリングを行ってくれました。

私がドルトンスクールの先生との話に与えられたのは2時間です。そこで言われたことが私の留学成功の大きな鍵になりました。まず、私の希望と現状の資料を渡しました。すると、USCやUCLAなど西海岸の大学を目指すべきではないとはっきり言われました。西海岸には不良日本人が沢山いて私のような気の弱い学生は、事件に巻き込まれる可能性が高いこと、そして日本人と仲間になり卒業するのがほぼ不可能になることなど指摘されました。
そして、東海岸に行くことを勧められたのです。その頃、日本ではアート映画ブームが起きており、ジム・ジャームッシュやスパイク・リーなどが注目されていました。彼らが卒業しているNYUにも興味があったので学校名を口に出すと、私の学力では入学が難しいと指摘されました。
先生は、画期的な提案をしてくれました。「まず、ニューヨーク州立大学に入りなさい。州立大学ならばあなたの学力でも入学でき、授業にもついていけるはずだ」と。「そこでAを取り続け、校長先生から推薦状をもらえばNYUに転入できるはずだ」と言うのです。大学に2つも行くのは大変だなあと思っていると、費用についてもアドバイスしてくれました。NYUは、私立大学なので授業料がとても高いのです。よって授業料の安い州立大学で単位を稼げば、最終的には留学費用を圧縮できるという美味しいお話です。

多くのことを得ることのできた河合塾。しかしその中でも一番の収穫は、この2時間のカウンセリングでした。この2時間が、その後の私の人生を大きく変えたと言っても過言ではありません。そのくらい意義のあるアドバイスだったのです。

私は、ドルトンスクールのカウンセラーの指示に従い、勉強をしてニューヨーク州立大学に入るべくアプリケーション・フォームを取り寄せ準備を進めていきました。

他の生徒の反応は様々でした。きちんと目標を提示できなかった生徒は、当然はっきりとしたカウンセリングができなかったようです。中にはカウンセラーの意見を聞かない学生もいました。西海岸の大学に固執している人がおおかったです。いろいろな考え方があり、正解がある訳でもないのですが、その後の50人を見ると、このカウンセリングをどう受け入れるかで人生がおおきく左右されていくのでした。

それはこの後、おいおい書いていきます...

(2017.1.10 Rev.)


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34. 留学予備校 1/3 [留学の準備]

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ニューヨーク・シティの郊外にある州立大学に入学し1年が経ち生活が安定してきました。
さて、では私がどのようにアメリカの大学に入ることができたのか、時間を戻してお話しましょう。

小学校1年の時にテレビで「オズの魔法使い」を見ました。今振り返ると、この時映画の仕事に就きたいと思い立ったのだと思います。高校まで日本で過ごし漠然とアメリカの大学に入って勉強したいという願望を持っていたのですが、実際にどのようなプロセスを辿りアメリカの大学に入るのかは全く知りませんでした。当時私の周囲にはアメリカに行った人などおらず、当時はネットもなかったので十分な情報を入手することはできませんでした。

高校時代、友人たちと通っていた予備校が河合塾でした。当時は高校の勉強を補う目的で池袋校に週数回通っていました。実は河合塾ではそれほど熱心に勉強していた訳ではありませんでした。東京郊外の高校が終わった後に、東京に出られるのが楽しかったのです。池袋という雑多な街の夜は、いるだけで田舎の少年には刺激的でした。そして私の通う高校は男子校だったので、東京のきれいな女子高生たちと教室を同じにするだけで行く意義があったのです。といっても、池袋で悪いことをする訳でもなく、女子高生とお友達になって喫茶店に行く訳でもないのでした。ただ、そのような都会の環境に自分がいることだけで満足していたのでした。

そんな河合塾の入り口にポスターが貼られていました。模擬試験があるという告知ポスターに並んでグリーンアカデミーというポスターがありました。Go for it !というコピーとともに留学コースと書いてあったのです。実は河合塾は留学を希望する学生たち向けに予備校を設けていたのでした。そこで、早速その留学コースの資料をもらいに事務所に行きました。一緒に池袋に遊びにいっていた高校の友達は、私の持っていた資料を見て不思議がっていました。それほど海外留学は自分たちにとって日常ではなかったのです。

後日、私は本屋さんで留学に関する雑誌を立ち読みし、いくつか興味のある本を購入しました。そしてアメリカ留学の進め方を理解しました。さらに本を購入し、実際に行きたい学校がどこなのかを調べ始めました。
そこには、高校生には夢のような世界が広がっていました。広いキャンパスの写真、アメリカ人学生と一緒に食事をする日本人学生、学校の設備、休日の過ごし方 etc ...
心はすっかり留学気分です。早速両親に留学したいという意思を伝えました。自分が行ったことのないアメリカの学校に息子を行かせるということを簡単に決める程、子供に寛容な両親はそういないでしょう。我が家も同じで、何回か話し合いをしました。両親はまずは日本の大学も視野に入れて勉強するように私を説得しました。きっと子供の気ままな発想だと思ったのでしょうし、実際に海外の大学に行かせるとなると、それなりに資金も必要だと感じたのではないでしょうか。
当時、私は本に魅了され、日本の大学に行くつもりはなくアメリカに行きたいという強い意志がありました。高校3年生の時は、毎日留学を思い描き、アメリカの地図を購入し、勝手に住んだ時のイメージなをしていました。そんな野望を持つ私が簡単に日本の大学受験に成功するはずもなく、日本の大学受験は失敗に終わります。超一流難関大学は不合格。あえて浪人の道を選びます。
高校を卒業後は、日本の大学受験に向けた予備校に通いつつ一人で留学の準備を進めました。そして両親を説得し、数ヶ月後、留学予備校に入っていいと言う了解を取り付けたのでした。
留学予備校に行って良いと親が決断するのに約半年かかっています。この間の時間は無駄になっています。日本の大学に入るための予備校の授業料も無駄になっています。でも両親はそれほど苦渋の決断だったのでしょう。自分の子供がアメリカという見知らぬ土地で大学に入り、しかも卒業することはとても難しいことだと気づいていたに違いありません。それでもアメリカに行くと言い張る息子の意思を尊重したのでしょう。

父親は、いくつかの約束を要求しました。まず、ちゃんとアメリカの大学を卒業すること。そして卒業後は日本に戻ってくること。
私は約束を守ることを誓い、河合塾の留学予備校の説明会に参加しました。

説明会によると、これがなかなか大変だということがわかりました。そんなに簡単に有名大学に入れないこと、卒業は相当厳しいこと、金銭的にも結構かかることなどが説明されました。しかし、もう引き返す訳にはいきません。私は入塾願書を提出し、正式に河合塾留学予備校に入ることにしました。

この私の行動を見て、高校時代の友達が急に自分も留学すると言い始めました。中川という友人は、高校ではクラスが一緒になったとこはありませんでしたが通学が一緒で、予備校も一緒でした。通学や池袋に行く時は電車が一緒になり、なんとなく話があったので、時々遊んでいたのですが、それほど仲が言い訳ではありませんでした。そんな中川は、結局一緒に留学予備校に入ってしまいました。

(2017.1.10 Rev.)

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